6 孜孜

2000.2


 

 「孜孜(しし)」という言葉が好きだ。

 漢文という教科がまだあって、世の高校生を苦しめ続けているが、その悪名高き漢文も、時として現代語にはないいい言葉を提供してくれるという、よき面も持っているのである。そんなことは、高校生諸君に言わせれば、勉強しなければならない理由にはならないだろうが、教育に「必要」ばかり強調するのはよくないことだ。何の役にも立たないことを闇雲に勉強するなんてことは、そうそう出来る体験ではない。

 それはそうと、「孜孜」である。この言葉をどこで知ったか記憶にないが、漢文のどこかに出てきたのかも知れない。意味は「つとめ励むこと」。何かを一生懸命にやっている様子を形容する言葉だ。「一生懸命働いている」というより、「孜孜として働いている」と言った方が、何か、その懸命さが違うような気がする。「孜孜」には、肉体的な姿までも含む懸命さが感じられるとでも言おうか。

 ぼくは気が散るたちで、なかなか教員室で集中して仕事ができない。いきおい同僚の教師たちと馬鹿話に興じたりするのだが、ときどき、教員室の机を前に一心不乱に仕事をしている教師がいる。仕事といっても、テストの採点だったり、提出されたノートの点検だったり、授業の予習だったり、まあそんなことなのだが、(十分仕事じゃないか、と叱られそうだが、何となく、仕事と言うには憚られる気分がある)そういう教師の背中から、「孜孜」という字が次々と立ちのぼっているような感じがするのだ。

 「おお、孜孜として励んでいるなあ。」と近寄って冷やかしても、その声すら聞こえないこともある。(無視されているのかも)そのように仕事に没頭している姿はなかなかいいものである。

 男子校で働く女性教師なども、だらだら廊下を歩いている男性教師なんかと違って「孜孜」として歩いている。廊下の向こうから「孜孜」として近づいてきて、「孜孜」として通り過ぎていく。後姿に思わず「リリシイ」とつぶやいてしまう。こちらの背筋も少し伸びる。

 教室の生徒からは、滅多に「孜孜」なんて立ちのぼらない。もっぱら「昏昏」とか「鬱鬱」とかが多いが、さすがに試験の最中は、教室が「孜孜」だらけになる。ほぼ全員から「孜孜」が立ちのぼる。「孜孜」「孜孜」「孜孜」という音までコツコツと鳴る鉛筆の音のバックに聞こえてくる。かれらの表情はキリリと引き締まり、眼にも輝きがある。こんなときの生徒がいちばん好きだ。


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