5 子供教師

2000.1


 

 金のために働いているんじゃないという気分が教師にはある。例えば公立学校の場合、一般事務職と教職では給与体系が違い、教師の方が優遇されているが、その仕事内容を考えるとき、給与の差が仕事の差に見合ったものだとは到底思えない。事務職が楽だと言っているわけではない。教職があまりにも大変だと言っているのだ。

 そういうことを言うと、決まって「でも、先生は休みが多いから」という言葉が返ってくる。たいていの教師はそれに対して「休みって言っても、全部休めるわけじゃないんですよ。いろいろな仕事があって、学校へずいぶん出るんです。」と答える。もちろんそういう教師もいる。部活の指導に熱心な教師は、日曜日だってほとんどない。

 しかしそうでない教師だっている。夏休みの8割ぐらいをまるまる休める教師だって珍しいことではないのだ。そういう教師にとっては、その給与は少なくないのか。

 少ない。どんなに休みが多くても、まじめに教師という仕事に取り組んでいるかぎり、いまの2倍の給与をもらっても、ほんとはその仕事に見合った給与とは言えないというのが多くの教師の実感だろう。

 だから、まじめな教師ほど、自分は金のために働いているわけじゃないと思いたがる。これだけ働いたからこれだけの金、ではなく、働いた内容とは関係なく金は支払われるのだとでも思わなければ、やっていけない。まさに聖職である。

 ところが、この聖職意識が、逆に教師を堕落させる。それがたとえ仕事の内容に見合わないとしても、自分の仕事に対して金が支払われているということに対して無感覚になる。自分のやっていることが、仕事なのか遊びなのか分からなくなってしまう。一言でいえば、子供のように甘ったれたわがままになる。

 生徒が騒がしくて授業を聞いてくれないとする。この場合誰が悪いのか。教師が悪いのである。生徒が聞く気にならない授業をするからいけないのである。そんなことはない。どんなに一生懸命がんばっても、ダメなんです、と言う教師もいるだろう。それなら、どんなに頑張ってもお客さんが来ないラーメン屋の場合、来ないお客が悪いとでも言うつもりか。

 ラーメン屋も教師も、働いて金を得る点では少しの変わりもない。金のために働いているんじゃないと思っているうちは、ただまじめなだけの「子供教師」にすぎないのだ。


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