56 シャボン玉の中

2001.1


 

 

  シャボン玉

シャボン玉の中へは
庭は入れません
まわりをくるくる廻っています

ジャン・コクトー(堀口大学訳)

 庭は、シャボン玉の中へ入れない。庭の映像がシャボン玉の表面に映されてくるくる回っているというのだが、正確に言うと、映像は実はくるくる回っているわけではない。映像を映しだしているシャボン玉の膜が回っているだけである。しかし、シャボン玉が絶えず、浮遊し、移動しているから、映像が回っているように見えるのだろう。あるいは、膜の表面を彩る虹色が、回っているのかも知れない。

 「シャボン玉の中」、それはシャボン玉の膜によって囲われた球形の空間。その球形の空間は、シャボン玉が消えるまでは、しっかりと存在しているのに、シャボン玉の消失と同時に、あっという間に周囲の空間にまぎれてしまう。

 ぼくらの周囲をすきま無く取り巻いている空間とは、そもそも何なのか。それは空気のようでもあり、時間のようでもある。まったく捕らえどころのないシロモノである。それが無くなってしまえば、ぼくらは一瞬たりとも生きていることはできないのに、それが何であるかをぼくらは知らない。

 シャボン玉は、それをほんのわずかな間だが、美しい形にして見せてくれる。しかし、シャボン玉にぼくらが見るのは、庭の風景であり、そしてその風景は、決して中に入れず、まわりをくるくる回っているだけなのだ。ぼくらはその風景にしばし見とれるが、あっという間に、その風景の消失とともに、その空間も失ってしまう。

 すべての表現も、またそのようなものではなかろうか。少なくともぼくは、まだ本当に書きたいことを書いてはいない。いや、書きたいことは何なのかも実は分かっていない。ぼくが書いていることは、シャボン玉の表面の膜に映る風景のようなものだ。けっして、「なか」に入れず、ただやみくもに「その」周囲を回りつづけているのだ。

 表現したいことが自分ではっきり分かっていて、それを言葉に移すのが文章なのだとは思っていない。表現したいことが分かっているなら、何も文章など書く必要もないのである。ぼくは、絶対に言葉に出来ないことの周囲を言葉につづることで、何とか「それ」を感知しようとしているにすぎないのだろう。

 シャボン玉が、どこへ飛んでいくかは、風まかせ。そこにどんな風景が映るかも、予期できない。しかし、それらの風景はいつも、「シャボン玉の中」を夢見ている。













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