55 「軽さ」と「重さ」

2000.12


 

 

  「軽さ」ということを考えている。

 イタリアの作家、カルヴィーノは、21世紀の文学における大事な価値として「軽さ」をまっさきに挙げているが、コトは文学に限ったことではなく、あらゆる局面において「軽さ」は、注目すべき価値であるように思われる。

 前回、「六本木男性合唱団」をさんざん皮肉ったけれど、もう少し冷静に考えてみると、「六本木男性合唱団」にはどうしようもない「重さ」があることに気づく。

 まず「六本木」という場所が「重い」。「六本木」のバー「クレイドール」というのが「重い」。「松戸」の「ゆか」ぐらいでないとダメだ。(実在しません。念のため。)

 次に「男性」というのが「重い」。女性がいても、オカマがいてもいいじゃないか。

 次に「合唱団」というのがまた「重い」。人が集まれば「合唱」がいいというのは、アリキタリすぎる。と言って、サンバでもタンゴでも阿波踊りでもやはり「重い」。人が集まって、何かをするということ自体が、もう「重い」のだ。

 次にその「六本木男性合唱団」が「ディナーショー」をやるというのが、ヒジョーに「重い」。まして、横浜のホテルコンチネンタルを会場とし、チケットが3万円以上して、そのチケットを買って600人も集まってしまうということのすべてが「重い」し、あまつさえその「ディナーショー」が「チャリティー」だということが、腹立たしく「重い」。

 もちろん「合唱団」の団員が、政界や財界や文壇の著名人であるということは言語道断に「重い」し、まして羽田孜が夫人とともに出演して「軽いつもりで」下手な学芸会をするということは、絶望的に「重い」。

 「軽い」というのは、たとえば松戸の「ゆか」という店の前で、若いサラリーマンと、中年のオカマが、演歌とシャンソンを歌っていたら、通行人が2〜3人立ち止まって、石をなげたり、5円玉を投げたりしていたが、そのうちバカバカしくなってみんな立ち去っていった、というようなことだ。

 もっともこの例にしても、完全に「軽い」とは言えない。「若いサラリーマン」「中年のオカマ」「演歌」「シャンソン」「5円玉」なんていうのも、それぞれに「重い」わけで、完全無欠の「軽さ」を表現する例を挙げるのは至難のわざだ。山奥で仙人が霞を食って生きていると言えばよさそうだが、「霞を食う」という表現がすでに「重い」。

 さて、あさっては21世紀。こういう言い方もやはり「重い」かな。












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