49 ドレミの無限

2000.11


 

 最近の日本の歌謡界の凋落ぶりはどうしたことなのだ、という質問に対して、言い訳みたいだがと前置きして、実は、日本だけではなく、世界的に見ても、新しいメロディーはもう出尽くしているのです、これからはサウンドの時代なのです、とある音楽家が言っていた。彼が言うには、メロディーにも限りがあって、順列組合せから言っても、作れる数には限りがある、だから、心にしみるような美しいメロディーは、すでにだいたい出尽くしているというのである。

 うすうす、そうじゃないかなあって思いつつ、でも相変わらず新曲は続々出ているわけだから、きっと無限なんだろうって思っていた。しかし、やっぱり無限じゃなかったのだ。無限だと思っていた石油が、実は有限なんだ、それも近いうちになくなってしまうんだということを聞いたときのような一種の衝撃を受けた。

 もっとも、メロディの方は石油とは違って、なくなると言っても、新曲が出ないだけのことで、昔のメロディは残っているわけだから、困らないといえば困らない。しかし、今後、心をおどらせ、浮き立たせ、涙をしぼる、そういう新しいメロディがもう作れないというのは、何だか悲しい。

 悲しいけれど、この事実は音楽に対する新しい見方を切り開いてくれるような気もする。つまり、創造することは、まったく新しいものを無から作り出すということである必要はないということ。これからはサウンドの時代だいうことは、同じメロディでも、無限のサウンドでの表現が可能だという意味だろう。一つのメロディをバイオリンで奏でた場合も、一つとして同じバイオリンはないから、バイオリンの数だけ表現は可能だということなのだろう。

 考えてみれば、我々の人生も、その骨格、つまりメロディにあたる部分は、そうそう多くのパターンがあるわけではない。生まれて、生きて、死ぬ、ドレミみたいに、単純なメロディであると言えば言える。しかし、そのメロディを奏でるぼくら一人一人のサウンドは人の数だけある。そして、それぞれがみんな独特な音を奏でているわけだ。

 人と変わった人生を歩もうと、必死にメロディを工夫しても、だいたいの生きるパターンは出尽くしている。新しい生き方なんて、そうそう出てくるものではない。大事なのは、同じ生き方でも、それをどんな音で奏でるかということだろう。しかし、自分の音を探す必要も、実はない。すでに自分は自分の音を奏でているのだから。










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