43 詩の快感

2000.10


 

 ここのところ、エッセイばかり書いてきて思うことは、もっと支離滅裂なことを書いてみたいということだ。論理的にちっとも筋が通らないとか、飛躍がどうしても一般的でないとか、荒唐無稽とか、そういう文章を書いてみたくなる。しかしエッセイではなかなかそういふうには書けないものだ。どうしてもエッセイは「ナットク」を求めてしまう。

 そう思ったとき、ふと、詩のことが思い出された。

 授業で、詩をやるよと言うと、決まって「詩は分からないからイヤだ」という反応が返ってくる。生徒にしてみれば、どうしても授業でやったことはテストに結びつくから、「分からない」ものは、イヤなのだ。その気持ちはよく分かる。

 しかし、ひとまず授業のことは脇において詩のことを考えると、詩はまさに「分からない」からいいのだとしか言いようがない。逆に、分かりやすい詩はおもしろくないのだとも言える。

 とんでもないことを書きたいから、詩を書く。たとえばシュールレアリスムの詩。普通じゃとても言えないから、詩にする。たとえば恋愛詩。

 だから詩を書くことは恥ずかしいことであると同時に、実に爽快なことでもあるのだ。言いっぱなしの快感。分からなくていいですって居直れる快感。私はこう感じたんだから、ほっといてくださいって突っ張る快感。こういう快感を味わうために詩人は詩を書いているのかも知れない。

 だから、詩を分かろうなんてしちゃだめなのだ。少しでも「分かる」って思ったら、それはその詩の詩じゃない部分だ。あれ、ここ分かんないなあって思ったら、そこに詩があるのだ。

 平田俊子というオモシロイ詩人がいて、たとえば「変」という題の詩を書いている。

 その第1連「あの家、変じゃないかしら/テレビのアンテナ倒れたままだし/玄関の表札カマボコ板だし/洗濯するのは月いっぺんだし/庭に大きな仏像あるし/(垣根ごしにのぞいたんだけど)」どうです、3行目あたりから詩らしくなっているでしょ。

 第2連。「あの家、変じゃないかしら/だんなは夜中に牛つれてくるし/女房はタンスしょって朝出ていくし/子どもははだかで学校行くし/畳できのこ栽培してるし/(風呂場の窓からのぞいたんだけど)」見事に、詩だ。

 いったん詩になってしまうと、最終連「あの家、変じゃないかしら/……/正月は家族で旅行する/計画なんかたててるし」というごく普通のこともほんとうに「変」に思えてくる。これこそ、詩の魔術なのだ。






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