42 つれづれなるままに

2000.10


 

 つれづれなるままに、ひぐらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きくつれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

 有名な徒然草の書き出しである。ひまで退屈なので、一日中机に向かって、心に浮かんでは消えるツマラヌことを書き付けていると、妙に「物狂ほしい気分」になってくる、ということだが、最後の「物狂ほしい気分」というのが、古典の授業などでも、なかなか実感として生徒に伝わらない。

 何でものを書いていると気が狂いそうになるのか。そんなことはないんじゃないか、って若い生徒は思うわけである。たぶん、若い高校生は、ほんとうの「つれづれ」を知らない。

 「つれづれ」とはどういうことか。岩波の古語辞典を見ると、「(連れ連れの意。)1物事がいつまで変わらず、長々しく続くさま。2変わったこともなく、単調で、気のまぎれることのないさま。3ひっそりと閑散なさま。がらんとして物さびしいさま。4心に求めるところが満たされずに、そのまま続くさま。(以下略)とある。

 高校生でもそういう気分はあるだろう。「ひまだなあ」という気分は誰にでもある。しかし彼らの「ひま」は、青春の荒波の中で、すぐに解消してしまう。人生そのものが「ひま」で「つれづれ」であると感じるには、少なくとも50年の歳月が必要なのだ。

 もっともいくつになっても、そういう感慨とは無縁の人も多かろう。今日もテレビで、蝶ネクタイしてやけにテカテカしたじいさんが、結局人間は男と女です、性は人間の基本的な本能なんです、なんて力説していた。そういう人にもおそらく無縁の感慨だろう。

 長々と続いてきた自分の人生を振り返ってみて「がらんとして物さびしい」思いにとらわれない人は幸せである。「心に求めるところが満たされずに、そのまま続いている」という思いに苛まれない人は幸せである。

 がらんどうな心に浮かんでくるものは何か。それは、幼い頃の思い出だったり、最近の出来事についての感想や批判であったり、哲学的な思索であったり、まさにとりとめもないことばかり。

 古語辞典の「つれづれ」のすぐ後に、「つれなし」という言葉が載っている。「連れ無しの意。二つの物事の間に、何のつながりもないさま。」とある。心にうかぶ「よしなし事」は「つれない」ことばかり。

 つながらないことを、がらんどうな心がえんえんと書き続ける。これで気が狂いそうにならなかったら、かえって不思議というものではないか。






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