21 マルタの味方

2000.5


 

 マリアとマルタの問題、と言って、あ、あのことかってわかる人は、そうとう新約聖書を読んでる人だ。

 イエスがある家にやってきた。そこにはマリアとマルタという姉妹がいて、尊敬するイエスがやってきたってんで、一生懸命もてなした。マルタは、もう台所にたちっぱなしで、ケーキ切ったり、紅茶いれたり、(まあ、今に置き換えての話です)おおいそがし。ところが、マリアはイエスのそばにべったり座りこんで、マルタの手伝いもしやしない。ただうっとりとイエスの横顔をみつめるばかり。

 マルタがいいかげん頭に来て、「あんた、ちょっとは手伝いなさいよ。イエス様、言ってやってくださいよ。」って怒ると、イエスは言う。(ここからは忠実に聖書のことばで)「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して、いらいらしている。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだのだ。それを取り上げてはならない。」(共同訳・ルカ福音書)つまり、イエスはマリアをほめて、マルタを叱った。

 この話、やっぱりどうしても納得いかない。これではマルタが可哀想だ。イエスにしてみれば、自分のそばでうっとりしている女の方が可愛いだろうが、自分のために一生懸命食事の用意をしているマルタを「おまえは、悪い方を選んだ」みたいに言うのはどうかと思うのだ。

 日常的な雑事に心を煩わせることなく、ただ神なるイエスを仰ぎ見て、ひたすら祈ることが大切なのだというのが、ここでの教えとなるわけだろうが、しかし、半端な人間がこの手の信仰にかぶれると始末におえない。日常的なことを甘く見て、人に迷惑かけっぱなし、その足で教会に出かけ「主よ、私は弱い人間です」なんて言ってお祈りするのだ。マリアをまねてると自分では思ってるわけだ。当人はそれでいいかも知れないが、はた迷惑もはなはだしい。「弱い人間です」なんて祈るひまがあったら、少しでも強くなる努力をしろって言いたくなる。

 イエスは「明日のことは明日の風まかせなさい。」と心配性のぼくにはとても気持ちのよい言葉をかけてくれる。しかし、ぼくはあくまでマルタの味方だ。というより、マルタでしかないと自覚しているというべきだろうか。高尚な祈りはそのうちいつか。今はただ、台所で、紅茶よりコーヒーかなあなんて考えて、コーヒーミルを一生懸命回していたい。その結果、たいていは苦いコーヒーを淹れてしまって、迷惑かけることになるのだが。



Home | Index | back | Next