19 恐ろしい思想

2000.5


 

 愛知県で起きた17歳の少年の高校生による殺人事件。犯人の少年は、「人を殺す経験をしたかった。」と供述しているという。

 その「経験」という言葉が、ざらついた感触で、心に引っかかっている。

 「何事も経験」とよく人は言う。「経験不足」とは非難の言葉だ。では、なぜ「人を殺す経験」は排除されなければならないのか。悪い事だからという当然の答えは脇に置いて、もう少し根本的な答えはないだろうか。

 いつの頃からか、人々は経験を、積極的に「する」ものだと思いはじめた。計画的にいろいろな経験をすることを、人生の一つの目的にさえしはじめた。世の中には様々な経験を売る商売もできた。ちかごろはやりの「秘境体験ツァー」などはその最たるものだろう。その結果、殺人事件に巻き込まれる事件まで起きた。これもつい先日のことだ。

 経験は「求めてする」ものであり、金を払って買うものであると人々は思いはじめているらしい。しかし、経験は本来「求めてする」ものではなく、いやおうなく「してしまう」ことであったはずなのだ。結婚生活の経験をしたいと思って結婚する人間はまずいない。結婚したら、結婚生活を否応なく「経験してしまった」のだ。そのように、経験とは本質的に受動的なものだ。

 秘境などという所は、「求めて行く」ことができないから秘境なのであって、秘境は本来「迷い込む」ところであるはずだ。「秘境ツァー」は言葉の矛盾なのだ。「グァテマラでまさかこんなことが起こるなんて思ってもいなかった。」という旅行社の言い訳は、言い訳にもならない。起こることが予想できる所はすでに秘境ではないのだ。

 日常的な経験に飽きてしまうと、人は刺激的な経験を求める。そのうち、刺激的な経験だけが経験だと錯覚しはじめる。次から次へと新しい経験を積極的に、能動的に求めるようになる。そしてそれこそが生きてる証だと思うに至る。

 けれども、ほんとうに大事な経験は、あくまで受動的なものだ。生まれること、日々生きること、病気をすること、死ぬこと、すべて「わざとする」ものではない。人を殺してしまった人間は数多い。しかし、「わざと生まれる」ことができないように、「わざと殺す」ことも人間にはできないのだ。

 「殺す経験をしたい」という言葉は、だから途方もなく恐ろしい。その気になれば何でも経験できると錯覚した現代が生んだ、恐ろしい思想なのである。


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