17 意地が悪い

2000.4


 

 「意地が悪い」と小学校5年生のとき、通信簿に書かれた。4年生の担任の先生があまりにぼくのことをかわいがりすぎ、ほめすぎたので、5年になって変わった先生がかえって反発して「ふん」と思ったのかも知れなかった。そんな印象を子供ながらにもった。「意地が悪い」という文字の隣に「ふん」と書いてあったような気すらする。

 先生がどういうつもりで書いたか知らないが、結果としてこの言葉は「この子が意地が悪いのは、あんたが意地が悪いからだ」と、母が祖母に攻撃される格好の火種とはなっただけで、肝心のぼくは叱られることもなく終わってしまったから、ぼくは自分が「意地が悪い」などとは夢にも思わず、そんなことを書く先生の方が意地が悪いんだと思っていた。何しろ、ただでさえ波乱の多い我が家に、また一つ争いの種をまいたのだから。ぼくにとっては、自分が意地が悪いかどうかより、こんなことでまた家庭でのイザコザが起きるということの方が腹立たしかった。

 しかし、通信簿に書かれた「意地が悪い」という言葉は、その後何十年たっても、執拗にぼくの心の中で生き続け、近年ますますその言葉の真実性が明らかになってきている。栴檀は双葉より香ばしではないが、ものごとに対する批判的な視線、すぐに言葉の裏を考えるようなひねくれた考え方、そういったものの片鱗が小学校5年生のぼくにもすでに見えていたのだろう。そこを先生は見逃さなかったというわけだ。それを書面をもって宣告するなんて、先生もやっぱりそうとう意地が悪い。もうちょっと違うやり方をしてくれていたら、ひょっとしてもう少し素直な人間になれたかもしれないなんて、甘ったれたことを考えたりもする。

 先日『グリーンマイル』という映画を観た。善人と悪人が古典的なほどはっきりと描きわけられた映画で、いつもなら「人間の描き方が甘い」なんて批評が口をついて出てきそうなところだが、今回は、その善人にほんとうに心を洗われるような思いを味わった。「いい人は、いい」という単純なことが、心にしみわたった。

 底抜けの人のよさに接すると、ぼくはいつも感動する。いいなあと思う。しかし同時にそれはどうしても自分のものではないという嘆きともなる。自分の心の中に巣くう「意地悪さ」を如何ともしがたいのである。

 まあ、しかたがない。もって生まれた運命とあきらめて、「ちょっとかわいい意地悪じいさん」を目指して精進しようか。




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