16 出っ張り

2000.4


 

 とうとう歯医者に電話してしまった。「どうしたんですか?」「ええっと、歯茎じゃないと思うんですが、歯の内側の歯茎より下なんですけど、ちょっと出っ張っているんです。」「ふふ」という声が聞こえたような気がした。近所の女医さんである。

 この女医さんは、いつ行っても大きなマスクをしているので、顔の全体像がつかめない。そのためか、どういう人なのかもよく分からない。「ご都合は?」「いつでも大丈夫です。」「それでは、明日の午前中はいかがでしょうか?」「午前中はだめです。」まったく、困ったものである。午前中がだめなら「いつでも大丈夫」という言葉に何の意味があるのか。自分の方こそ全体像のつかめないヤツではないか。それでも女医さんはツッコミもせず、「午後6時ごろにいらしてください。」と言っくれた。いい人だ。

 「それで山本さん、歯茎じゃないんですね」「歯茎かも知れないんですけど、顎の方かも知れません。」「出たり引っ込んだりするんですか?」「いえ、出たまんまです。」昨日の引き続きか、女医さんはどことなく笑っている。「じゃあ、口開けてくださいね。……あ、これのことですか?」「ええ。」「これですね。」と言って手に持った金具(?)で今までさんざん気にして、舌の先で恐る恐る触れていた出っ張りを無造作につっつく。冷や汗が出る。

 「これはねえ、ぜんぜん問題ないんです。」

 嬉しい言葉である。実は一月ほどまえ、何の気なしに舌で口のなかをさぐっていたら、その出っ張りに気づいたのである。「あれ、何だろう」って思ったのが運のつき。持ち前の心配性がフル稼働して、あらゆるろくでもない想像をして気が滅入っていた。その上、舌の先で触れてばかりいるので、とうとうそこが痛くなってきた。それで勇気をふるって歯医者に行くことにしたのである。

 「人間の顎の骨っていうのは、複雑で、いろんな出っ張りがあるんですよ。普通の人はあんまり顎の骨なんて気にしないんですけどね。」女医さんはもう声を出して笑っている。診察室の奥の方に行ってゴソゴソやっていたが、やがて出てきて「顎の骨の模型をお見せしようと思ったんですけど、ちょっと今見つからないんで。とにかく心配いりません。」

 何もしていないから、と言って女医さんは診察料をとらなかった。いいえ、その言葉が大事なんです、ありがとうございましたと心の中で言いながら、「普通の人じゃない」ぼくは、笑顔で家に戻った。




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