98 さよならをつみかさね

2014.9.6


 もうとっくに調べたよという方も多いだろうが、「さよなら三角 また来て四角」のあとは、「四角は豆腐、豆腐は白い、白いはウサギ……」って続き、「デブデブ百貫デブ 電車にひかれてペッチャンコ」のあとは、「ペッチャンコは煎餅、煎餅は甘い、甘いは砂糖、砂糖は白い、白いはウサギ……」(煎餅は白い、白いは砂糖、っていうのもあるらしいが、煎餅はあまくも白くもないと、ぼくは思うけど……)なんて続き、行きつくところは「光るはオヤジのハゲ頭」なんだそうである。じゃあ、「おまえのかあちゃんでべそ」はどこへ行ってしまったのだろうか。これもやけになってネットで調べると、驚くほどいろいろな解釈があり、中には、相当ヒドイ言葉だという解説をする人もいて、どれがほんとやら分からない。ただ、ぼくらが小学生の頃は、ごく普通に、悪態として意味不明のまま使っていたのだし、今ではそんなことを言っている小学生もいないだろうからこの問題はこれでおしまい。

 しかし、それにしても、蒸し返すようだが、「さよなら三角 また来て四角」の後に、「四角は豆腐」なんて言った覚えはない。そもそもぼくの場合は、「さよなら三角 また来て四角」という言葉を幼いときには使わなかった。横浜の下町の悪ガキに交じって遊んでいたわけだから、そんな詩的な別れ方はしなかった。「じゃあ。」とか「アバ!」とか、そんなふうな簡単な言葉だったように思う。それに、小学校の4年からは、受験勉強を始めたから、そんな甘ったるい幼少期は記憶に残らないまま過ぎてしまった。

 先日、「一日一書」で、工藤直子の「また あいたくて」を取り上げたときに書いたことだが、この詩の感銘深いところは、まずは「またあえるねと うたってた」にある。今回は、著作権のこともあるが、引用ということで、全文をひいておく。

   また あいたくて 

さよなら三角
まてきて四角
またあえるね と
うたってた

さよなら春 さよなら夏
さよなら秋 さよなら冬

さよならを くりかえし
さよならを つみかさね

また あいたくて なにかに
きょうも あるいていく

 ここでは、「四角は豆腐」へと続く言葉あそびではなくて、別れの言葉として「さよなら三角 また来て四角」が使われていたことを示しているように見える。「さよなら三角 また来て四角」と別れの言葉を言いながら、「またあえるね」と、声に出して歌ったというより、そういう気分で「さよなら三角 また来て四角」と歌ってたということだろうか。いずれにしても「うたってた」という過去形が泣かせる。

 あの頃は、幼い頃は、「またあえるね」と「うたって」、そして「またあえる」ことを信じていた、ということだ。ということは、大人はそれを信じることができないということである。大人、それも高齢者になればなるほど、「またあえる」とは限らない。まさに「明日をも知れぬ命」なのである。

 「さよならを くりかえし/さよならを つみかさね」に、その大人の経験のありようの痛切さが描かれている。「さよならだけが人生だ」というわけだ。

 最初の勤務校でずいぶんとお世話になったN先生という方がいた。ぼくよりは確か一回りほど上だったと思う。N先生は、ぼくが都立高校を辞めてからも、ときどき電話をくれた。それも突然、「今、横浜に来てるんだけど、どう?」って感じで誘ってくれた。たいていは、ヒマだったから、横浜駅あたりで落ち合って、お酒の飲めないN先生と、喫茶店でコーヒーを飲みながら、2時間とか3時間とかねばって、いろいろな話をしたものだった。そんなことが年に1回はあった。

 今から5年ほど前だっただろうか、そのN先生がまた例によって午後の2時ぐらいに横浜にいるんだけどと言って電話をしてきた。ぼくは、ちょっと忙しくて、無理すれば会いに行けたのに、断ってしまった。先生は、「そうかあ。」と残念そうな声で答えたけれど、「じゃ、またそのうち。」とあっさりと電話を切った。

 それから1年もたたないうちに、突然、N先生の死を、彼の娘さんから電話で知らされたのだった。衝撃だった。あ、あの時、どうして会っておかなかったんだろうと思った。会ったとしても、その時も、「じゃ、また。」と別れたろう。でも、最後の電話の、先生の「そうかあ。」という残念そうな声がいまだに耳の奥に残っている。

 まだ最初の学校に勤務していて、年中、N先生を囲んで、町田の喫茶店で数人でしゃべっていたころ、N先生は、「会えるうちに会っておかないとな。会わないでいると、死んじゃうからな。」とよく冗談で言っていた。そんなことも思い出す。

 昨日、また、「またあえる」と思っていた人の突然の訃報を聞いた。「さよならを くりかえし/さよならを つみかさね」て、生きていくしかないのがこの人生であることは分かっていても、いったいどれだけ「くりかえし」、どれだけ「つみかさね」ていかなばならないのだろうかと、思わずため息が出る。

 工藤直子は「また あいたくて なにかに/きょうも あるいていく」と締めくくるけれど、どこかその足どりは重い。重くても、「あるいていく」のだ。それが人生の「重み」というものなのかもしれない。


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