93 ふるさとの訛り懐かし

2014.8.9


 ちょっとした言葉の言い回しとか、発音とかが、気になることがよくある。そこに、故郷の訛りが見え隠れするからだ。啄木のように、東北の出身者なら「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と歌いたくなる気持ちはよく分かる。東京で、東北訛りに引け目を感じながら生活していると、故郷の訛りが、「懐かしい」なんてもんではなくて、切実に必要になったのではなかろうか。それでなくては、わざわざ上野駅まで、方言を聴きにゆくというのは大袈裟に感じられてしまう。もっとも、啄木の歌には青春特有の大仰さがあって、砂を握ってみたり、蟹と戯れてみたり、母を背負ってみたり、まあ、別にそんなことするわけないじゃないかというわけではないが、どことなく芝居じみていることも確かだ。

 けれども、この「ふるさとの…」の歌は、芝居じみているとか、ウソっぽいとかいう面はあるにせよ、それ以上に、内面的にはリアルである。つまり、ほんとうに方言を聴きに上野駅に行ったかどうかは別にして、そうしたくなる心の切実性は、実に納得できるということだ。

 納得できると断言したが、ぼくの場合は、横浜生まれの横浜育ちだから、取り立てて方言らしきものもない。よく言われる「じゃん」なんかも、昔は使ったような気がするが、今はあんまり使わないし、それを使って「どうだ、オレは浜っ子だぜ。」みたいな態度を取られたら返って白けてしまう。所詮、横浜には、横浜弁と言えるような独特な言葉はないのだ。それが寂しい。

 啄木は、都会生活の孤独の中で、「ふるさとの訛り」に、まるで心地よい温泉にでも浸かるような気分を味わえたのだろう。言葉が、体も心も温める。それは、やはり「ふるさとの訛り」でなければできないことだ。

 週に2〜3度、イトーヨーカドーに家内のお供で買い物に出かける。今は、夏休みなので、平日でも子どもが多い。催事場で、カルピスが、何かイベントをやっていた。カルピスの制服(?)を着たオネエサンが、スピーカーで子どもたちに呼びかける。「11時っから、イベントを始めま〜す。」これを、何度も何度も繰り返す。

 それを聞いて、ふと懐かしくなった。彼女は「11時から」ではなく「11時っから」と、小さな「っ」を入れていた。これはたぶん江戸弁である。落語でも「初めから」というところを「初めっから」とか「はなっから」という。「11時から」とか「初めから」とかいうようにスラスラとは言わないで、なんか突っかかる言い方をする。

 ぼくも昔はこういう言い方をしたし、こういう言い方をよく聞いたなあと思って、懐かしくなったらしい。20歳そこそこの若いオネエサンが、こんな言い回しをするなんて、とびっくりもし、ちょっと嬉しくもあった。

 だからといって、その「11時っから」に、身も心も温められたというわけではない。ぼくの生まれ育った家でよく聞いた職人たちの姿や顔が、一瞬、脳裏をよぎったような気がした。ただそれだけのことである。


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