92 「甜」もあるさ

2014.8.4


 前回とその前の「一日一書」で、今井凌雪の本で知った「苦は尽きず、甜は来たらず」という言葉を紹介した。「生きている限り、苦しみは尽きることはなく、甘い楽しみなんてないんだ。」という厳しい言葉である。その言葉を聞いて今井凌雪は自分もその覚悟で書の道で生きていこうと決心したということだった。

 書を初めてまだ8年目に過ぎず、しかも年齢的にもそれほど先のないぼくにとっては、書の道に対してそれほど厳しい覚悟を持つことはできないけれど、書のことに限らず、人生そのものについて考えたときに、これくらいの厳しい思いを持っていたほうが、かえって生きやすいのではないかと思うのだ。

 ぼくは人一倍神経質で、不安を抱えてしまう人間だから、ちょっとしたことで落ち込んでしまう。そのうえ、生来の「楽したがり」なので、辛いことにはめっぽう弱い。「甜=甘いこと。楽なこと。楽しいこと。」ばかり求めてしまう。そういう人間にとっては、この言葉は一種の「魔法の言葉」なのかもしれない。

 現役の教師のころ(まだ、数ヶ月前までそうだったのだが)、辛い事件などが起きて、苦しい思いをしていたときに、よく心の中で、山中鹿之助が言ったという「憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん(辛いことが、さらにもっと私の上に次々とやってこい。どこまでやれるかわからない自分の力をためしてやろうじゃないか。)」という言葉を呪文のように唱えたことがよくあった。ほとんどやけっぱちの言葉だが、辛いことの渦中で、何とかこの辛い状況から逃げたいとばかり思っていると、更に辛くなるものだ。ええい、こうなったら、矢でも鉄砲でも持ってこい! っていう開き直りこそこういう状況には有効なのだと思う。

 楽しいことなんか、もうないんだ、と割り切ることは、絶望ではない。それは、「おれは、楽しいことを求めて生きているんじゃないんだ。」という決意である。そう決意しても、楽しいこと、嬉しいこと、甘いことは、やってくることもあるわけである。それこそ、めっけものだ。おれには楽しいこと、嬉しいことは無縁なんだから、関係ないとばかり、それに背を向けるのではなく、存分に味わえばよい。

 今回の病気、手術のときも、それこそ「苦」の連続だった。それでも、「甜」も結構あった。けれども、「苦」に負けていたら、「甜」も味わえなかっただろう。

 病気からの回復も「甜」のひとつだったが、その回復期に書いた書の作品が、今回の現日書展で評価されて、「同人格推挙」ということになった。これは思ってもいなかった「甜」だった。そんなことは、何年も先のことで、果たしてそこまで命が持つだろうかと心細くも思っていたのに、意外にはやく実現してしまった。

 この前の8月2日土曜日、ぼくは初めて授賞式に出席した。これまで何回か入賞したことはあったのだが、授賞式に出る気持ちにはなれなかった。けれども、今回、「同人格推挙」が決定したことを電話で伝えてくださった師匠の弾んだ声を聞いたとき、もう絶対に出ようと思った。こんな「甜」は、もう二度とやってこないかもしれない。だから、とにかくこの嬉しい気持ちを存分に味わおう、そう思ったわけだ。

 そう思って、出席しますと即座に電話口で答えたはいいが、その後、家内と話していて、そうだ、いったい何を着ていけばいいのだろうという極めて現実的な話になり、結局、翌日、夏用のジャケットと、シャツと、ネクタイを買いに走った。その買い物自体も「甜」だった。

 当日、ライトの眩しく照らす都美術館の講堂の舞台に、名前を呼ばれて「ハイ!」と元気よく返事をして、偉い先生の前に進み、おおきな賞状を直接手渡しされたとき、急に高校時代の卒業式を思い出した。思えばそれ以来、「感謝状」の一枚すら無縁だった人生。感無量である。

 「人生楽ありゃ苦もあるさ〜。」という歌がある。これが一般的な真実なのだろうが、どこか生ぬるく奥行きがない。潔く「甜なんて来やしないんだ。人生は苦ばかりさ。」と思っていたほうが、思いがけない「甜」もひとしお味わい深いものとなるようだ。


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