90 無駄なこと

2014.7.20


   手術後、しばらく声がかすれてしまい、普通の会話も難しかった。大動脈瘤のある血管を切り取り、人工血管と交換するという手術と声に、どういう関係があるのかというと、心臓近くの大動脈をぐるりと回るように反回神経というものが通っており、この反回神経が声帯の筋肉をつかさどっているために、これを損傷すると、声がかすれることになるわけである。損傷がひどい場合は、この声のかすれは回復が難しく、授業もむずかしくなる。そういうリスクがありますということを、手術前に医師から聞いた。これが3月で退職することを決心した大きな原因だった。

 手術の後、医師からは反回神経のほうは大丈夫でしたねと言われたが、声のかすれは3月になっても続いていたので、何らかの損傷があったらしく、どこまで回復するかという心配がずっと続いていたのだ。

 結果としては、4月に入って、ようやく普通の声が出はじめ、今では多少ハスキーボイスになる時はあるが、会話も手術前と変わらずに出来るようになった。これはとても嬉しいことだった。何しろぼくは非常におしゃべりだから、普通に会話ができないということは、ものすごくストレスがたまるのだ。

 まだ、声がかすれまくっていたころ、家内と話すときも、必要最小限のことしか言えなかった。話すときは、家内のすぐそばまで行って、ささやくような声で話すしかなかったからだ。それでも、長く話していると喉が痛くなってしまう。2〜3メートル離れたところにいたら、声が届かない。それで、話す前に「これからオレが話そうとしていることは、ほんとうに必要なことだろうか?」ということをまず考えざるをえなかった。その時、気づいたのは、実は「本当に必要なこと。」なんてほとんどないということだった。薬を飲みたいから水をくれ、なんていうことも、自分でやればすむことだ。起き上がれなかったら、ジェスチャーでも間に合う。

 つまり、手術する前のぼくが家内に話していたことの95パーセントぐらいは「話す必要のないこと」、つまりは「無駄話」だったというわけだ。今日はこんな夢を見たなんて話(ぼくは以前から夢の話をよくしたのだ。)は、誰だって聞きたくないだろうし、迷惑千万以外のなにものでもない。

 そういうことに気づいたけれど、回復した今は、すっかり元に戻ってしまっている。つまり、毎日無駄話ばっかりしている。たまに学校に顔を出しても、まともな話はしないで、無駄話ばっかりだ。そして、人には迷惑だろうと思いつつ、無駄話のできることの幸福を今更ながらにかみしめている。

 そして、こんなことも考える。人生において、「無駄じゃないこと」「本当に必要なこと」って何だろう。極端なことを言えば、「食べる」ことだけということになる。更に身も蓋もないことを言えば「全部無駄」とも言える。「食べて、生きた」としても、結局は死ぬことに変わりはない。無駄といえば無駄である。

 そこまで極論に走らなくても、たとえば、ぼくが「フォトブック」を作ったとしても、そしてそれが何人かの手にわたって、そこそこの「楽しみ」を味わっていただけたとしても、それが「どうしても必要なこと」とは思えない。なければないでいいのだ。ということは「無駄」なのである。

 でも、声がかすれて、まともに会話ができなかったころは、ほんとうに辛かったし苦しかった。それは「本当に言いたいこと」が伝えられなかったからではない。「無駄話」ができなかったからだ。とすれば、実に逆説的だが、「人生にとって本当に必要なこと」とは、実は「無駄なことをすること」なのではないか。

 バスの中で、腹が立つほどどうでもいい無駄話に興ずる老人たちを見て、「ああ、その声を、オレにくれ!」と心の中で叫んでいた頃(まだほんの数ヶ月前のことなのだが……)のことを思うと、生きるということは、まさに「無駄を生きる」ことに他ならない、ということを痛感するのである。


Home | Index | Back | Next