88 シウマイ弁当続々考

2014.7.5


   シウマイ弁当にエビフライが入っていたかどうかは、意外に「入ってたよ」と簡単に答える人が周囲に多く、ぼくとしては拍子抜けというか、素人感を実感させられたというか、まあ、好きな割には、実はあんまり詳しくないという結論に至った。

 この前、次男と話していたら、昔は蕗の煮物も入っていて、その蕗の緑色が隣のカマボコに移っていて嫌だったなんてこともいいだす始末で、それがほんとかどうか知らないが、ぼくの「経験不足」はやはり否めないようだ。

 よく考えてみると、前々回にも書いたが、シウマイ弁当を盛んに食べるようになったのは、ここ20年ぐらいのことで、それ以前はあまり食べなかったのではないかと思う。

 そもそも、ぼくは弁当というものが幼い頃から好きではなかった。かたまった御飯が好きではなかったのだ。これはどうも祖母の影響らしく、御飯がかたまっていると吐きそうになってしまい、どうしても食べられなかった。御飯はもちろん茶碗の中ではチャーハンみたいにパラパラしているわけではないが、ときどき飯粒がくずれたようになってかたまりになっていることがあるが、あれがダメなのだ。ましてお焦げなどはもってのほかで、絶対に食べられなかったし、今でも食べられない。「お焦げ」はおいしいから、わざと作れる炊飯器もあるらしいが、理解に苦しむところである。

 栄光学園に勤めていたころ、よく丹沢にキャンプの引率で出かけたが、そこでも飯ごうで炊いた飯が苦手だった。たいていは焦げ飯だったからだ。それでぼくは、飯が炊きあがると、まっ先に焦げていない中央の部分をすくって食べた。かたまっているのがダメなだけではなくて、芯があったり、べちゃべちゃだったりしたら、もうダメ。つまり、こと御飯に対しては、ものすごくうるさいのである。

 今では、白米の御飯はほとんど食べないからいいのだが、食べていた頃は、たった1合しか炊かない御飯を、家内はぼくの分は、ほんとに中央のかたまっていない部分を注意深くすくってよそってくれていた。炊飯器に直接ふれて、ちょっとでもかたくなっている部分の御飯はダメなのだ。どこのお坊ちゃんなんだというくらい贅沢な話である。(そのかわり、御飯以外の料理にはほとんど好き嫌いがありません。)

 そういうわけだから、シウマイ弁当にしても、その御飯がかたまっているのが嫌で、あんまり食べなかったのではないかと思う。ところが、結婚して間もなくの頃だったらしいが、ぼくが家内に「シウマイ弁当もいいけど、御飯がかたまっているのが嫌だなあ。」と言ったところ、「何言ってるの、御飯がおいしいんじゃないの。かたまっているんじゃなくて、なんか、餅米が入っているんじゃないかなあ。もちもちしていて、御飯が私は大好きよ。」みたいなことを言った。

 この会話は、はっきりと覚えている。今、改めて調べてみると、餅米を入れているのではなくて、御飯は蒸気で蒸すという方法をとっているので、もちもち感があるのだそうだが、いずれにしてもシウマイ弁当の御飯が、「失敗」の結果かたまっているのではなく、「わざと」かためてあるのだ、つまり「完璧な成功作」なのだということを、その時はっきり認識したのだった。それ以来、シウマイ弁当を、御飯を含め、すべておいしく食べることができるようになったというわけなのだ。

 御飯がかたまっている、という状態には二種類ある。ひとつは、失敗作。もうひとつは「わざと」かためたもの、つまり、おにぎりとか寿司とか、もっといえば餅とか、そういうものは、ぼくはもともと大好きだった。けれども茶碗の中の御飯のかたい部分やお焦げは、ぼくは「失敗作」だと思っていた。だから嫌だった、らしい。

 認識が味を変える、ということなのだろうか。不思議なことである。

 


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