83 紙媒体信心

2014.6.8


  ホームページに連載していた「100のエッセイ」を、ブログに移行したとき、長年の友人から、これでは印刷できないではないかと文句を言われた。彼は、ぼくのエッセイをプリントしてためていたらしいのだ。ブログだってプリントできるよと言ったが、確かに、ブログの場合は、プリントすると余計な所まで入ってしまい、文章だけすっきりというわけにはいかない。それで、いずれ、エッセイはホームページの方にも載せるからと言ったまま、サボっていた。

 ブログの方でエッセイを書き続けているうちに、いつの間にやら57編にもなってしまい、しかも、そのエッセイが、「一日一書」やら「つれづれフォト」やらといった、何となく始めたシリーズの中にゴチャゴチャに紛れ込んでいるので、たとえば、入院中のことを書いたエッセイはどこだっけと探すとなると、結構大変なことに気づいた。

 もちろん、「このブログの中で検索」という機能を使えば、「宇宙」で検索すると、「宇宙からの帰還?」というエッセイはすぐに出てくるが、その次に書いたエッセイにすぐにはとべない。といって、「カテゴリー」から「100のエッセイ」を選んでクリックすれば、「100のエッセイ」だけがずらりと順番に出てくるが、20も30も前のエッセイに行くには、スクロールを繰り返さなければならず、メンドクサイ。

 そういうわけで、自分の必要性もあって、「目次」のページを作った。こうすると、エッセイの題名が一覧できて、読みたいエッセイに一発でとべる。これならいいかと思っていると、件の友人が、「目次、ありがたい。ブログも、手軽(なの?)だけど、工夫が必要で、たいへんやなあ。しかし、うらぎりもの! 以前、『100のエッセイ』、プリントアウトができないと嘆いたら、いずれ纏めてYOZ HOME PAGEに移し、一覧も印刷もできるようにすると約束してくれたではないか。」という苦情が来た。

 ここまで執着する人間なんて、彼ぐらいのものだろうから、「へへ、ごめん、ごめん。」と笑ってスルーしてもいいのだが、考えてみれば、そういう人間がこの世に一人でもいるということは、作者としては、もって瞑すべしともいうべき有り難いことなので、「約束」は守らねばと思い直した。

 それで、以前のYOZ HOME PAGEの方へ、ブログの57編を全部コピーするという作業を二日がかりで行った。出来上がってみると、やっぱり、こっちのほうが一覧性に優れていて、読みたいエッセイがすぐに見つかるし、「NEXT」とか「BACK」をたどれば、次々と本を読むようにエッセイを読んでいける。ブログよりよほど楽だ。

 「本を読むようにエッセイを読んでいける。」なんて書いたが、実は、作者であるぼく自身が、自分の書いたことをすっかり忘れてしまっていて、自分の書いたエッセイを読んで思わず笑ったりしているのだから、いい気なものだ。

 件の友人からはさっそくメールが来て、そのメールの題に「目次、収蔵整理、蔵出し、みな、ありがたや」とあり、本文には、「やはり紙媒体信心は消しがたく、プリントアウトできるのは、心強いのです。」とあった。そうか「蔵出し」という言葉があったなあと思って、次回から、「蔵出しエッセイ」と銘打つことにしたが、それにしても、確かに「紙媒体信心」というのは、やはりある程度の年代以上の人間にとっては、抜きがたい傾向であることを実感した。

 数日前、久しぶりに大学時代の友人と会って飲んだのだが、その友人からも、「ヤマモトのエッセイだけどさあ、あれ、パソコンでいつでも読めるとはいっても、なんだか、ああいう形でしか存在しないというのは、どうもなあ。やっぱり、本という形にすべきなんじゃないかなあ。」と言われた。「そんなこと言ってもねえ、第1期、第2期は自費出版したけど、その度に50万ぐらいかかるわけでさ、しかも、それをいちいち郵送したりするわけで、そんな金はないよ。」と言ったけれど、確かに、ネット上に存在しているものの「頼りなさ」は否定できないところだ。

 それにしても、2人もの友人が、「紙の本にしろ」と言ってくれるのは、やっぱり有り難いことだ。といって、第3期からもうすぐ完結しそうな第9期までを全部本にしたら、それこそ大変なことだから、まあ、「蔵出し」を続けていって、それが100編ほどたまったら、ささやかな本にしてもいいかなあなどと考えないでもないが、家に行き場のない在庫が山ほど残ることを考えると、やっぱり、ネット上にはかなく存在するだけでいいやとも考える今日この頃である。


 

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