80 来ないほうがよかった?

2014.5.17


 「名物にうまいものなし」ということわざがあるが、「名所にろくなところなし」というのもアリなんじゃないだろうか。もちろん「名物」にだってうまいものはあるし、「名所」にだって素晴らしいところもある。けれども、実際に食べてみると、それほどでもないじゃん、とか、実際に行ってみると、来ないほうがよかったと思うことって結構多いものだ。

 先日、ヒマをもてあましているというわけでもないが、前から一度行ってみたいと思って気になっていた「田端文士村」を初めて訪ねた。毎週金曜日は、教科書関係の仕事のために王子まで出かけるのだが、現役教師だったころは、寄り道してから王子へ行くということはほとんどしなかった。しかし最近では、せっかく王子まで行くのだから、6時から始まる会議の前に、途中下車していろいろと回ってみようなんて気になって、こんどは、まず一直線で王子へ行くことのほうが少なくなった。これを、ヒマをもてあましていると見るか、心にゆとりができたと見るかは、意見の分かれるところだろう。

 この「田端文士村」は、実に面白くなかった。行く前は、かつて芥川龍之介や室生犀星が暮らしていた「村」だから、それなりの「文士好み」の風景が少しは残っているのだろうと何となく思っていた。室生犀星は、ぼくが大学の卒業論文で扱った人で、彼の作品はかなり多く読んだのだが、その中に何度も田端の名が出てきて、ずいぶんと気に入っているような書きぶりだったから、さぞかしいいところなんだろうと思っていたのだ。しかし、山手線や京浜東北線で田端駅を通りすぎるたびに、こんなゴミゴミしたところに「文士村」と称する場所なんてあるのだろうかという疑問も長いこと抱いていたのも事実である。

 行ってみて驚いた。何にもないのである。文学や芸術の香りなんて、どこを探してもありゃしない。田端駅のすぐ近くに、「田端文士村記念館」という立派な、いやむしろ立派すぎるビルはある。しかし、この記念館の展示室は、建物の立派さにくらべると拍子抜けするくらいスペースが狭く、展示内容も貧弱で、芥川龍之介や室生犀星の原稿などが展示されてはいるが、ほとんど複製品である。それでも、この「文士村」がどのように形成されたのかについての詳しい説明はあり、それを読めば、この「田端文士村」は、芥川龍之介の自殺によってなくなってしまったということが分かるのであった。

 つまりは、芥川龍之介の魅力が、多くの文士や芸術家をこの地に引き寄せ、一種の「芸術家村」を形成し、それを面白がって芥川が「文士村」と称したというわけで、その中心人物たる芥川が自殺してしまうと、みんなちりぢりになっていったということらしいのだ。室生犀星もひどくショックを受けて、そうそうに馬込に引っ越したという。そういえば、犀星の文章には馬込もよく出てきていた。

 つまり、「田端文士村」というのは、土地や風景の魅力によって形成されたのではなく、人のつながりが生んだ「村」だったのだ。それならば、ぼくが芥川の死から90年近くもたってそこを訪れたとしても、「何にもない。」と感じても仕方のないことなのだ。

 しかし、それにしても、「田端文士村」をうたって、地元を活性化しようという動きがあることは確かで、「文士たちの歩いた道を歩こう」などという地図まで作っているのに、「ここが誰それの住んだ跡です」という案内プレートがたった3箇所しかないという不親切さはいったいどうしたことなのか。

 この「何にもなさ」から、この土地の人は、あんまり芥川龍之介にも室生犀星にも興味がないんだろうなという寂しい感想が生まれるのはいかんともしがたく、酒屋の店先に「田端文士村」という銘柄の日本酒があったのが、かえって妙にうらさびしかった。

 その数週間あと(つまり昨日)、今度は鶯谷駅で降りて、「書道博物館」を見学しがてら「子規庵」を訪ねた。どちらも初めての訪問だったけれど、この二つの建物は、細い道路を隔てて向かい合っている。「書道博物館」は画家であり書家でもあった中村不折の住居跡に建てられたものらしく、ここは企画展示(「美しい隷書」)も充実していて素晴らしかったが、肝心の「子規庵」の方は、開館時間が4時までということで入れなかった。

 それはそれでまた来ればいいだけの話なのだが、この「書道博物館」と「子規庵」をとりまく環境がこれまた目を覆うほどにひどい。その周辺のビルは、ほとんどがいわゆる「ラブホ(ラブホテルのこと)」なのである。(今、ふと気づいたのだが、昨今はやりの「スマホ」という名称がどことなく下品なのは、「ラブホ」に似ているからかもしれない。)時間も夕方ちかくだったので、アヤシげな女の影もちらほらし、ぼくのような欲望の衰えたジイサンでさえ、通るのがはばかられるような場所。まあ、「子規庵」も、開館時間が4時までなら、夜にこんなところに来る人もいないだろうからいいようなものの、子規のいう「根岸の里」も、風流どころのさわぎではなく、風俗の巷となりはてていたというわけだ。

 「子規庵」は、いずれゆっくり訪れるつもりだが、「来ない方がよかった」という感想が生まれないことを祈るばかりである。


 

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