79 野尻湖とテラピア

2014.5.11


 「野尻湖へ行ったことがない。」と始まる文章を蜂飼耳が書いているのをふと目にして、野尻湖のことを書こうと思った。

 彼女は行ったことのない野尻湖について、なぜ文章を書いているのかというと、高校生の頃、中勘助の『島守』という文章が好きで繰り返し読んだが、どうやらその「島」が野尻湖の中に浮かぶ「弁天島」らしいということを知ったかららしい。今どきの人間は、世界文化遺産にまだ決まっていないうちから、富岡製糸場を一目見たいと殺到するわけだが、彼女は、野尻湖に興味を持ってから10年以上経っても、まだ行ったことがないのだそうだ。つつましくてよい。

 余計なことだが、蜂飼耳の文章は、ほんとうに必要な場合以外は、「私」という主語を書かない。これも、とてもよい。ぼくも、なるべくそうしている。で、ぼくの文章は、これからだ。

 野尻湖へ行ったことがある。

 20年以上も前のことだ。その頃、勤務校栄光学園の国語科では、退職する教師が出ると、その教師の送別会のために2泊程度の旅行をした。今では、そんな余裕もないが、まだ時代がゆるやかだったのだろうか。

 その年、ぼくの恩師でもあるA先生が定年退職ということで、幹事となったぼくともう一人の教師で、旅行の計画を立てた。国語科の旅行だから、いかにも国語科らしくということで、新潟・長野に、良寛と一茶を訪ねるというテーマをたてた。弥彦神社に参拝し、寺泊に良寛を訪ね、1泊目は、岩室温泉に泊まった。旅館の名前は忘れたが、民芸調の家具に囲まれたともてもいい感じの旅館で、温泉も素晴らしかった。翌日、一茶を訪ねてということで、信州は柏原へ行き、一茶の住んだ土蔵などを見学した後、2泊目となる野尻湖ホテルへとタクシーで向かった。

 これが大問題だった。もともとの計画では、わざわざ野尻湖まで泊まりに行くことにぼくは反対だった。3月下旬というまだ寒いシーズンオフなのだから、湖なんて見るところもない、温泉がいいと主張したのだが、もう一人の幹事が(この人もぼくの恩師であった。)が、なぜだか分からないが、野尻湖がいいと言って譲らなかった。温泉ではないが、野尻湖プリンスホテルというのがあるから、そこならきっと豪華な食事もできるだろうというので、まあ、恩師でもあり先輩でもあるその人をたてて妥協したのだったが、出かける何週間前だったか、チケットや宿泊予約を頼んでおいた某旅行会社から、「野尻湖プリンスホテルは、改装中で駄目でした。そのかわりに、野尻湖ホテルに予約を入れておきました。」という連絡が入った。嫌な予感がしたが、まあ、「プリンス」が間に入るか入らないかの違いで、ホテルには違いないのだからいいかと納得してしまったのだった。

 さて、1泊目で温泉や料理でとてもいい思いをした我々国語科教師一行(10名ぐらいだったろうか。)は、さらなる「いい思い」を期待して、野尻湖ホテルに向かった。タクシーは、急な山道をぐんぐん登って行く。雪もあちこちにまだ残っている。寒そうである。この辺から、何でわざわざ野尻湖なの? という疑問が再び胸に去来しはじめたが、そのうち、タクシーが、はいここです、と到着したのは、野尻湖のほとりの何の変哲もない家、というか、ちょっと大きめの木造の宿屋。どうみても、「ホテル」のたたずまいではない。少なくとも「プリンスホテル」の面影はどこにもない。でも、看板には、たしかに「野尻湖ホテル」と書いてある。

 しまった、と思った。「プリンス」があるかないかは、大違いじゃないか。都会のいかがわしい宿屋だって「ホテル」を名乗ることはいくらでもある。そう気づいたときは、もう後の祭り。しかも、その後が驚愕の展開だった。

 ぼくは恐る恐る「野尻湖ホテル」のガラスの汚い大きな横開きのドアをあけた。するといわゆる玄関ロビーがあったが、そこに置かれているお土産などを入れるガラスケースに、白い大きな布がかぶせてある。どうみても、「閉店」の風情である。ドアがはげしく軋んで鳴ったのに、誰も出てこないので、中に向かって大声で叫ぶと、ホテル(宿屋)の女将(オバサン)らしき女性が怪訝な顔をして出てきた。

 今日予約している栄光学園の者ですが、と言うと、その女性は、びっくりした顔をして「あ、ほんとにいらしたんですか。」というではないか。え、ほんとに、ってどういうことですかと、こっちは更にびっくりして聞くと、「いやね、こんな季節に10人ものお方が来るということでしたが、何かの間違いではないかと思いまして、旅行社にお電話したのですが、何だかはっきりしないお答えで、たぶん行くんじゃないでしょうか、というようなことで。ですから、やっぱり間違えだと思ってしまいまして。すみません。何も用意もできていないのですが、とにかく、どうぞ。」と言う。

 あまりのことに、開いた口も塞がらない思いだったが、しかたないので案内された部屋に行くと、8畳ほどの畳部屋が2部屋で、窓には安っぽいアルミサッシ。エアコンもない。女将(オバサン)があわててガスストーブを運んできたが、ぜんぜん部屋は暖まらない。寒いので、取りあえず、風呂にでも入ろうということで2、3人で連れだって行ってみると、風呂の中から子どもがキャッキャと騒ぐ声がする。何と、そのホテル(宿屋)の子どもが入っているのだ。ようやく子どもが出た後に入ってみれば、もうほとんど普通の家庭のタイル張りの風呂で、3人ぐらいしか入れない。もう呆れかえっていちいち文句も出なくなってきたが、それでも、夜の宴会を楽しみにしているうちに、その時間になった。

 案内されたのは、「食堂」である。床はリノリウム、そこに安っぽいチェックの柄のビニールをかけたテーブルに、足の錆びたパイプ椅子、要するに、場末の潰れかかった食堂をイメージすればいい。え、ここで? と一瞬ひるんだが、さすがに、そこで宴会はできない。その食堂の一角の、床が10センチほど高くなった(10センチでは、「小上がり」とも言えない。)6畳ほどのスペースがあって、そのスペースの周囲がガラスで囲われている。部屋といえばいえるようなスペースが、宴会場だった。

 すみません、何も用意していなかったものですから、近所からのかき集めで、と正直に言いながら、まだ解凍しきれていない蟹の足だの、お吸い物だの、もう何でもいいから食えるものを並べました、といった感じの「料理」が並んでいったが、唯一ここの自慢らしい魚の天ぷらが出てきた。「これ、なんという魚?」と聞いたら、「これは野尻湖で採れる、テラピアという魚です。」と言う。テラピアだって? ピラニアみたいな魚か? って思いながらも、まずいのかうまいのかも分からないその魚を食べ、熱燗なのか冷やなのか分からない酒を飲み、まあ、みんなでぶつぶついいながらも、幹事のぼくとしては何とかこの場を盛り上げようとするのだが、何しろ、この時の送別の対象たるA先生は、なかなか気むずかしい人で、何かにつけて文句を言わずにはいられない人。よりによってその先生の送別旅行の最後の夜が、こんなひどいホテル(宿屋)になってしまい、いつ先生が切れてしまうかしれたものではないから、もう気が気じゃない。それに、この部屋(スペース)も妙に寒い。すきま風も食堂から吹き込んでくる。見ると、全員、もう冗談も言う元気もなく、寒さにほとんど中腰になって、冷たくまずい蟹の足やら、えたいのしれないテラピアの天ぷらを食べている。幸い、A先生は、さすがに幹事に同情してくれたのか、最後まで切れずにいてくれたが、ときどき、神経質にピクピクする目尻を見ては、ぼくはほんとに生きた心地もしなかった。

 女将(オバサン)がやってきて、この期に及んでよせばいいのに、この野尻湖はナウマン象で有名なんですが、その骨が最初に出たのが、うちのすぐそばなんです、なんて自慢をする。みんなはふんふんと頷きながら、ナウマン象なんて知ったことか、このテラピアを何とかしろ、って思っていたことだろう。(少なくともぼくはこのとき以来、ナウマン象が嫌いになった。)

 後で、ようやく分かったのだが、このホテル(宿屋)は、夏に大学などのボート部なんかの合宿のために使うところで、冬や春はほとんどお客が来ないのだという。だから、こんな3月の寒い時期に、男ばかり10人もの人間がやってくる意味(あるいは目的)がどうしても女将(オバサン)には分からなかったのだというのだ。(ぼくだって分からなかった。)

 だからいったじゃないの、温泉じゃなきゃ駄目だって、とぼくは思ったが、「プリンス」がないだけだからいいかと思った自分も悪かったと反省もした。しかし、旅行社も「たぶん行くと思う。」とはなんたる言いぐさか。思い出す度に、腹も立ち、情けなくもなる。

 野尻湖は、蜂飼耳みたいに、「中勘助が書いているところかあ。」とかぼんやり思っているだけのほうがよっぽどいいのかもしれない。


 

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