78 「させていただきます」

2014.5.4


 近ごろ妙に気にさわる表現がある。それは「○○させていただきます。」とか、「○○させていただいております。」とかいった表現である。

 例えば、お昼や夕方のバラエティというのか、ワイドショーというのか、何だかよく分からない、やけっぱちのような番組では、もうバカの一つ覚えみたいに、「激安ラーメン店の裏側に迫る」とか、「驚きの食べ放題の現場」とか、とにかく食べ物関連のレポートばっかりやっているのだが、その時に、取材に応じたお店の人が言うセリフには、「このラーメンの出汁には、鰹節の他にサバ節も入れて、より濃厚なコクをださせていただいております。」とか、「このパスタの生地はよく練ったあと、6時間ほど冷蔵庫で寝かせていただいております。」とか、まあ、とにかく「させていただく」のオンパレードである。ちょっと気をつけて見ていると、気持ち悪くなるくらい使われているのが分かるはずだ。

 その度に、いったい誰に向かって「させていただく」と言っているのか、勝手にさらせ、と思って腹立たしくなるのだ。ラーメンの出汁にサバ節を使おうが、パスタの生地を冷蔵庫で6時間寝かそうが、そんなこと誰の許可が必要だというのか。たとえ、そうさせてくださいと言われたって、いやダメだとか、まあそんならよかろうとか、こっちは言える立場ではない。それなのに、勝手にやっておきながら、いやこれは私どもの勝手なふるまいではなくて、あなた様のお許しを得たものと判断して、そうしたのでして、もしそんな許可を出した覚えはないというのでしたら、どうぞ今お許し願いたいのです、とでも言いたげな表現である。これでは、まるで、江戸時代の悪代官の前に引き出された憐れな農民ではないか。

 どうして単純明快に、「出汁にサバ節も使いました!」とか、「パスタの生地は冷蔵庫で6時間寝かせました!」とか、言えないのか。そう言ったからといって、いったいどこから文句が出るというのだろうか。いったい彼らは何に気を使っているのだろうか。

 こうしたいわば権力(飲食店にとっては、客はまさに権力だ。「神様」ではない。)におもねるような、いちいち権力の顔色をうかがうような表現がまかりとおり、そう言わないと、傲慢だとでもとられかねない今の世の中は、根本的におかしい。これは、どこかで、何かというとイチャモンをつけてくるお役所があって、そういうお役所を相手にしている商売をしている人間が使い出した言葉が、だんだん一般にも浸透してきた結果なのかもしれない。飲食店についていえば、客がクレーマー化して、何かというと文句を言ってくる結果とも考えられる。

 教育の世界でも、こうした表現こそ使わないにしても、こういう構造ができつつあるように思える。公立の学校では、詳しい事情は知らないけれど、シラバスとかいって、一年間の授業計画を立て、それを保護者や生徒に公開するというようなことが行われるようになって久しいと聞く。まさに「こういう授業計画で、授業をやらせていただいております。」といったところであろう。

 この場合、誰に向かってこれを言っているのかは、必ずしも明確ではない。生徒かもしれないし、親かもしれないし、教育委員会かもしれない。逆に言えば、授業ひとつやるにしても、現場の教師は、教育委員会や、親や、生徒の「許可」を得て、あるいは「顔色」を見てやらねばならないということだ。

 お前の学校では、国語でこんな文章を読ませているらしいが、いったいこの文章を読むことで、どんな力がつくというのか、きちんと説明しろ、と言ってくる親がいるかもしれないのである。そういう親が出てきたときに、現場で、きちんと対応できるようにするには、1年間の授業計画を立てて、この文章を読むのは、こういう力がつくと思っているからですとあらかじめ書類に書いておくようにする。その書類は、各教師が年度の初めにちゃんと書いて、国語科主任やら校長やらのハンコをもらうというようなシステムを構築しておく、といった対策を講じておけばいいということになるだろう。

 つくづくバカバカしいと思うのだが、実際にこういうことが行われているらしい。ぼくも、大学を出てすぐに都立高校に12年間勤めたが、その頃は、こうしたバカバカしいことは一切行われていなかった。だから、ぼくのような縛られることの嫌いな自分勝手な人間でも、何とか勤めることができたのである。今のような公立高校には、ぼくは、たぶん1日として勤めることはできない。まったく、ある意味では、いい時代に生まれたといってもいいだろう。(ということは、ある意味では、最悪だったということだが。)

 今はもう、自由気ままな身の上なので、勝手にさせていただいておりますです、はい。


 

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