76 虚栄心は遺伝

2014.4.22


 前回の「好奇心と虚栄」を読んだ友人の林部英雄氏から、「パンセのあのくだりは全く覚えていなかったけど、僕が『ことばの発達』について研究してきてたどりついたいくつかの結論に大変よく似ているので興味深いものがありました。」といった内容のメールが来た。ちなみに、彼の専門は「発達言語心理学」。「いくつかの結論」の内容は次の通りである。

 一つは「ことば」は情報伝達のためだけにあるのではなくて、人と人との親密な関係を作り上げそれを維持する役割があるのだということであります。これを「社会的調整の機能」といいます。例えば挨拶というのが一番いい例でしょう。「こんにちは」というのはほとんど何の情報も伝えてないけど、人同士の親密さを保つためには非常に重要でしょ。実は多くの会話が内容はどうでもよくて、会話すること自体に意義があるのだということです。そしてヒトは常に会話をするための「話のたね」を探しているのだということでもあります。別にSTAP細胞が存在しようとしまいと、話のタネになりさえすればどちらでもいいのです。

 友人なのに、実に丁寧な言葉使いで書いてくれている。まるで講義を聞いているみたいだ。すごく得した気分。持つべきものは友である。そういえば、今、思い出したのだが、高校生の頃、よく彼と一緒に丹沢へ行ったのだが、その帰りに駅の公衆電話から彼が自宅へ電話するのを聞いて驚いたことがある。電話の向こうの母親に、敬語を使って話していたのだ。下町のペンキ職人の息子のぼくにはまったく考えられないことで、こんな人間も(家族も)いるんだと、ほんとにびっくりした。

 それはそれとして、「ヒトは常に会話をするための『話のたね』を探しているのだ」という指摘にはうならされる。そう言われてみれば、世の中のことがほぼ理解できる。

 テレビのワイドショーで、小保方さんの会見を見たオバサンコメンテーターが、「あのさ、報道記者もさ、もっと分かりやすい質問の仕方をしてくれれば、私たちも、『自分なりの意見』を持てるのにねえ。」なんて言っていたが、専門家でもない素人の「わたしたち」が「STAP細胞があるかないか」についての「自分なりの意見」なんて持つ必要がどこにあるのかと腹立たしく思ったが、それも林部氏によれば、結局、事実がどうであるかなんてどうでもよくて、「話のたね」になればそれでいいわけで、そのためには、「そうよ、STAP細胞なんてなかったのよ。」とか「小保方さんは嘘つきなのよ。」とか「小保方さんが悪いんじゃなくて、理研という組織のあり方の問題なのよ。」とか言って、しばし雑談ができるような「はっきりした意見」を手に入れることが必要なのだ。

 そして、そのような雑談は無駄なのではなくて、十分に「人と人との親密な関係を作り上げそれを維持する役割」を果たしているということになる。世のためにはならないけれど、自分たちの生活はそれなりに潤うというわけだ。なるほどなあ。更に、林部氏は続ける。

 またもう一つ別の知見は、自分だけが知っていることは他人に話したいという遺伝的な傾向があるということです。王様の耳はロバの耳とか物言わぬは腹膨るるわざなりとかいう例を出すまでもなく、理解して頂けるでしょう。ですから虚栄というならその虚栄心は遺伝的な傾向でヒトである限り逃れられないということです。

 そうかあ。遺伝的傾向なんだ。なぜ、「自分だけが知っていることは他人に話したいという遺伝的な傾向がある」のかということについての彼の説明はないけれど、多分、それは、動物としての人間が身を守り、種族を繁栄させるためには必須のことだったということだろう。原始人が、どこかで食べ物を見つけたとする。その「知識」を自分だけのものにしていたら、種族は繁栄しない。誰かにそれを伝える。そうすれば、誰かもその食べ物にありつける。誰かが、山火事で焼けた牛の肉を食べたらうまかったとする。それを誰かに伝えることで、「料理法」が確立する。このように「知識」を伝えることで、ヒトは、文明や文化を作ってきたのだ。

 この遺伝的な傾向が、生活の低レベルのところで発揮されると、「自慢するために何かをする」という行為となるわけだが、見方を変えれば、パスカルのいう虚栄こそが、文化・文明の根源なのだとも言えるわけである。

 そういえば、ジョージ・オーウェルが「なぜ書くか」という評論で、作家がものを書く理由を4つ挙げているが、その第1としてこんなふうに書いていたのを思い出した。(正確に言うと、何か虚栄心について書いていたことを思いだしたので、本を取り出して──というか、電子書籍化したファイルを開いて──調べたらこんな風に書いてあった。)

一、純然たるエゴイズム。頭がいいと思われたい、有名になりたい、死後に名声をのこしたい、子供のころに自分をいじめた連中を大人になったところで見返してやりたいといった動機。こういうものが一つの動機であること、それも強い動機であることを否定して格好をつけてみたところで、それはごまかしでしかない。その点では、作家といえども科学者、芸術家、政治家、法律家、軍人、大実業家──要するに人類の最上層にいる人間と、なんら変わるところはないのだ。人類の大部分はそう自己中心的ではない。三十をこす頃になると個人的な野心など捨ててしまい──それどころか、そもそも個人としての意識さえ捨てたのも同然になって──他人の生活のために生きるようになるか、骨が折れるだけの労働の中で窒息してしまうものだ。ところが一方には、少数ながら死ぬまで自分の人生を貫徹しようという決意を抱いている、才能のある強情な人聞がいるもので、作家はこの種の人間なのである。れっきとした作家はだいたいにおいて、金銭的関心ではかなわなくとも、虚栄心となるとジャーナリスト以上につよく、自己中心的だと言っていいだろう。(「オーウェル評論集」小野寺健編訳・岩波文庫)

 ここで注目されるのは、作家がエゴイストであることはともかくとして、エゴイストの筆頭に「科学者」があげられていることだ。科学者も昔から、「有名になりたい」人が多かったということらしい。小保方さんも、この誘惑の犠牲者なのだろうか。

 虚栄については、オーウェルは、パスカルのように「虚栄にすぎない」と切って捨てるのではなく、むしろ「虚栄だよ。それがなぜ悪い。」と居直っているふうでもある。作家が虚栄心からものを書いていることは疑いがないとしても、それだけじゃないぜ、というように彼は、あとの3つを挙げる。「二、美への情熱」「三、歴史的衝動」「四、政治的目的」。中でもオーウェルは4番目の「政治的目的」を最も重視している。彼によれば、「政治的」とは、昨今の日本の(あるいは世界の)ような、ずるがしこい駆け引きのことではなく、「世界をある一定の方向に動かしたい、世の人々が理想とする社会観を変えたいという欲望。」であるとする。

 虚栄心から自由にはなれないかもしれないが、そんなことはたいしたことじゃない。オレは、世の中を変えたいから物を書くのだ、という意気込みが伝わってくる。ちなみに、この文章の最後はこんなふうに締めくくられる。

 これまでの仕事をふりかえってみるとき、命が通っていない本になったり、美文調や無意味な文章に走り、ごてごてした形容詞を並べて、結局インチキなものになったのは、きまって自分に「政治的」目標がなかったばあいであることに気がつくのである。

 ぼくの書くエッセイに「政治的」な目標などはこれっぽっちもないから、インチキな文章になっていることは確かだが、まあ人類の遺伝的な傾向ということで、許してもらうしかないだろう。


この文章をアップしたあと、これを読んだ林部氏から、次のようなメールが届いたので、転載します。科学というのは、どこまでも厳密でなければならないのですね。改めて勉強しました。

 確かに自分だけが知っていることを人に言いたくなる(これをことばの「開示機能」といっておきましょう)のが何故遺伝的傾向になったのかはよくわからないのです。
 実は言語の遺伝的な機能と考えられる側面が他にも2種類あるのです。一つは、「模倣機能」で、今一つは「警告機能」です。これらは説明の必要もないかもしれませんが、「模倣」は他人のことばをそのまま真似するというもので、「警告」というのは、危険な状況に立ち至った時に他人に対して「危ない!」とか「逃げろ!」とかいう場合です。
 「模倣」は、ことばに限らず、幼い子どもが大人の真似をして様々な行動を学んでいくことが進化的に選択されてきたというのは充分にあり得る話ですし、「警告」は、例えば親が危険な状況にある子どもに対して発することばがもとになっていると考えればこれも進化的には大変合理的です。ですからこれらが遺伝的傾向になってきたというのは、誰でも頷いて頂けるでしょう。
 しかし「開示」については、どうもよくわかりません。勿論あなたの考えのように「その「知識」を自分だけのものにしていたら、種族は繁栄しない。誰かにそれを伝える。そうすれば、誰かもその食べ物にありつける」ということも充分に考えられます。しかしそれが進化的に選択されるためには、群れの中の他のメンバーの利益が結局は自分の利益にもなるのだということを明示しなければなりません。ただ、他のメンバーというのが自分の子どもである場合は、進化的に選択されて遺伝的な傾向になるということはわかっています。ですからもしかすると「開示」も親子関係に関連した機能として説明されるべきなのかも知れず、「一子相伝」なんていう考え方に何かヒントがあるのかもしれません。とはいえ今のところよくわかっていないのです。
 ただ笹井副センター長ではないけれど、「開示が遺伝的な傾向だと仮定しないと説明のつかないことがある」のです。
 とにかく開示が遺伝的な傾向だということが正しいとしても、何故遺伝的行動になったのかというのは今のところよくはわからないということです。
 尚、「開示」ということ
ばは今僕が勝手に使っただけで専門用語でも何でもないことを付記しておきます。(でも案外うまい表現かも知れない :-))

 


 

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