75 好奇心と虚栄

2014.4.20


 パスカルの『パンセ』という本のことは、高校時代の友人Hから聞いた。何やら哲学めいた高級そうなそんな本を同級生が読んでいるなんて驚きで、さっそくその本を買ったような気がする。それ以来、折りに触れて読んできたが、通読したことはない。パスカルがその本の中で批判していた(と記憶する)モンテーニュの『エセー』の方がむしろ最近ではお気に入りだった。

 先日、久しぶりにある本で、パスカルの「気晴らし」についての考えが引用されていて、懐かしくなり、『パンセ』をパラパラと読んでみたところ、こんな文章に出くわした。

 好奇心は虚栄にすぎない。ひとは大抵のばあい、話のたねにしようとしてのみ知りたがる。そうでないならば、人は海の旅などに出ることはあるまい、そのことを決して話さないというのであるならば、またそのことをつたえる希望はなくただ見る喜びだけのためにというのであるならば。(津田穰訳・新潮文庫・1952)

 そんなことはないだろうと思いつつも、そうだよなあとも思う。こんな短い文章なのに、相反する感想をもたらし、思索の小径へと運んでくれる。貴重なことだ。そうだ、そうだと単純に共感できる文章も悪くないが、それではそこで思考はとまってしまう。とまってしまう思考はあまり意味がない。新しい発見を生み出さないからだ。

 「好奇心は虚栄にすぎない。」とパスカルは言い切る。若さを保つ秘訣は、好奇心を持つことです、てな類の意見は、巷にあふれかえっている。そしてそれは決して間違ってはいないだろう。何に対しても旺盛な好奇心をもって接する人が、生き生きとしていることは確かなことだし、何にも興味を持つこともなく、一日中ぼんやりコタツに入っている老人はボケるのも早そうな気がする。

 けれども、この言葉には、苦いトゲがあって、それが心をチクチクと刺すのである。早い話が、ブログである。ぼくが使っているこのgooブログだけでも、何と200万のブログが存在する。200万である。200万人の人が、ブログを作って公開しているのだ。いったい何のためなのか。

 パスカルなら、自慢したいためだ、と吐き捨てるように言うことだろう。今日は湘南海岸にサーフィンに行ってきましたとか、今日はあのラーメンを食べに2時間もかけて横浜の上大岡というところに行ってきましたとかいうのは、一見好奇心に溢れた人間の記事に見えて、実は、そういうアクティブな自分をアピールしたいという魂胆が丸見えなのだ。まして、大きな手術をしてまだ3ヶ月しか経っていないのに、連日お天気のいいのに誘われて鎌倉を散歩してきました、なんて書くヤツは、自分に酔ってしまって、どうだすごいだろと体力を自慢しているにすぎないのだ。

 埼玉からわざわざ横浜の上大岡まで出かけてきて、たった一杯のラーメンを食って帰った人間が、そのことを誰にも言わないなんてことは、考えられない。腹が減ったから家の近くの食堂でラーメン食ったということなら、むしろ誰にも言わないだろうが、そんなのは好奇心の発露とは言えない。テレビのクイズ番組だって、好奇心から見るけれど、「へえ〜」って思ったことは、絶対に人に言いたくなる。なぜ言いたくなるかと言えば、「そうなんだあ!」と言ってもらいたいからだろう。つまり虚栄だ。その点で、パスカルはまったく正しいというほかはない。

 しかし、それでも、「そのことを伝える希望はなくただ見る喜びだけのために」海に旅立つということは、本当にないだろうか、という疑問は残る。パスカルは「ない」、と言いきるが、それはやっぱり「ある」のだと思う。あるのだが、海から帰ったときに、誰かにどうしても語りたくなる、というのが本当なのではなかろうか。「本当」というのは、いいかえれば、大昔はということだ。本とか、テレビとか、インターネットとかいったいわゆるメディアのない時代には、好奇心は「純粋」だったはずだ。好奇心が先にあり、虚栄が後から追いかける、という時代。

 しかし、メディアの発達によって、それが逆転した。パスカルの生きた時代は、まだそれほどメディアが発達していなかったのに、すでに虚栄が先走っているとパスカルは感じていた。だとすれば、現代という時代では、あらゆるシーンで虚栄が先走っているのは当然であろう。そしてだからこそ、「そのことをつたえる希望はなくただ見る喜びだけのため」の好奇心、言い換えれば、自分だけのささやかな喜びを発見する心が、限りなく貴重で、魅力的に思える。

 発見しても、それを人に自慢げに語らない人、ましてブログなど作ろうとも思わない人、そんな人こそ魅力的だ。魅力的だけれど、そういう人を「発見」することは決してできない。だって、何にも言わないのだから。


 

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