71 ありがとう

2014.3.22


 この3月20日、勤務先の栄光学園の終業式の際に、同時に教職員の離任式も行われた。離任式といっても、おおげさなものではなく、退任教職員が校長から紹介されて、お辞儀をするというだけのことだが、これで、ぼくも正式に、学校の教師を辞めたわけである。

 本当は、もう1年勤める予定だったのだが、1年はやく辞めることにしたのは、去年の12月、病気の発覚直後のことだった。術後の経過がどうなるか予測できなかったし、その後の手術の説明の中でも、術後に声が出にくくなる可能性も指摘されていたので、それらを考え合わせて、学校には今年度で退職したいと申し出ていた。結果的には、それが正解だった。術後の経過は順調だけれど、声がかすれて話しにくいという症状はまだ続いていて、今後これがどうなっていくかは、これもちょっと予想ができない。少なくとも、今の状態で授業はとても無理なことは確かなので、12月の判断は非常によかったといえるだろう。

 それはそれとして、紛争で荒れに荒れた大学を逃げるように卒業して、都立高校に勤めてから42年の歳月が経ったとは、月並みだが、まるで夢のようである。創立2年目の都立忠生高校が最初の勤務校で、そこに5年。その後、都立青山高校に移ってそこで7年。そして栄光学園になかば強引に戻ってからちょうど30年。よくもったなあとつくづく思う。もっとも、最後の最後で、3ヶ月の休職を余儀なくされたのだから、「もたなかった」というべきかもしれないが。

 この42年間にわたる教員生活で経験したことを書いたら、それこそ、今回の「入院シリーズ」の何十倍にもなるだろう。卒業生に会うと、名前も覚えてないし、そもそもその子を教えたことがあるかどうかも分からないくせに、何だか妙にはっきりと覚えていることも山ほどある。それぞれについてさんざん今まで書き散らしてきたような気もするが、まだ書いてないこともどうやら多そうである。多そうであるなどとアイマイな書き方しかできないのは、この「100のエッセイ」も今回で通算871回目で、これだけ多くなると、いったい今まで何を書いてきたのかを調べるのは容易ではないからである。いちおう、何か書くときは、「前に書いたかな?」と思って検索をかけてはいるのだが、それでも見逃している可能性も大きいだろう。日常の会話でも、「オジイチャン、その話は100回目ですよ。」と言われることはないまでも、「あ、それ、もう聞いた。」とはしょっちゅう言われることなので、このエッセイでもそんなことは多いに違いない。

 このエッセイがいったいいつまで続くかは「神のみぞ知る」だが、学校に行かないぶん、話題も激減するだろう。そうなるとネタ切れになって、「昔話」が必然的に多くなるのもやむを得ぬところ、とご勘弁いただいて、おいおい「昔語り」もしていこうかと思っている。

 20日の終業式では、式場の講堂から外へ出るときに、生徒たちが盛大な拍手をしてくれて、みんな笑顔で送ってくれた。その後、廊下ですれ違うと、何人もの生徒が照れながらも「ありがとうございました。」と言ってくれた。そんな言葉が彼らの口から自然に出るなんて、ちょっと予想していなかったので、感動してしまった。ぼくも彼らのひとりひとりに心の中で「ありがとう」を言った。ほんとうに生徒あっての教師である。結局それが42年間の教師生活を通じての実感だといっていい。

 その夜の教職員の送別パーティでは、かすれた声で、挨拶をした。話がどうしても長くなってしまいがちなぼくだが、声がよく出ないので、かえって簡潔(?)にまとまったかもしれない。とにかく、声がかすれているから、いきなり「こんばんは、森進一です。」と言って始めたら、うけてしまって、後は嬉しくて、思いつくままに話したが、酔っぱらっていたので、内容はよく覚えていない。ただ、とにかく、ぼくはその場に立つことができて、何十人もの職場の仲間の顔を直接見ることができたことが幸せでならなかった。そこにいる人たちの笑顔が、宝物のように輝いて見えた。ただそのことだけを伝えたかった。

 話の最後に、「詳しくはウェブで。」と言ったら、これも妙に受けた。受けたついでに、どうぞ、ときどき覗いてやってください。このブログは、今後のぼくの「主な仕事場」となるはずですから。


 

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