70 贅沢な時間

2014.3.14


 石川淳が、永井荷風の晩年の随筆は、愚かな老人の愚痴にすぎないと、こきおろしている。その原因として、本来、随筆を書く基本的な条件は、本を読む習慣があることと、金に困らないことの二つをあげている。晩年の荷風は、ろくに本も読まずに、精神は硬直してなんの柔軟性もないと断じているわけである。金のことに関しては、ちょっと複雑なのでここでは触れないが、特に西洋のエッセイというものは、「読書」なしには生まれないのだということは注目に値する。確か、このようなことは、他の誰かも言っていたように思う。

 石川淳はさらに、「本のはなしを書かなくても、根底に書巻をひそめないやうな随筆はあさはかなものと踏みたふしてよい。」と断じている。

 どうして、本を読まないと「あさはかな」随筆になるのかというと、石川流に言えば、精神が硬直して、柔軟性を失うからだということだろう。いくら年の功とはいえ、自分の信念に凝り固まった老人が、今の世の中を嘆く随筆を書いても、結局は「老人の愚痴」にしかならないということだろう。

 ぼくも調子にのって、えんえんとこんなエッセイを書き続けているが、石川淳に言わせれば、きっと「愚かな老人の愚痴」ということになってしまっているに違いない。せめてそのことだけでも自覚して、少しでもそうならないような努力はしたいものだとは思う。

 だからというわけでもないが、最近読んだ本の中から、ちょっと気に入った文章を紹介したい。最近読んだとはいっても、文章は古いものである。井上靖の「とりとめもない時間」という随筆から。これは、「一年の計は何か」というアンケートに触発されて書かれたものらしい。

 今年、もう一つ自分に課していることは、少しでも時間ができたら、古いものの収められている博物館や美術館に足を踏み入れるということである。こうしたところには、特別の展覧でもある時以外、なかなか出掛けて行かないが、考えてみればもったいない話である。
 昨年の暮れに久しぶりで東京博物館に行って、二時間ほど館内を歩いた。特別な催しもののある時ではなかったので、館内は閑散としていて、自分の足音が気になるような静けさであった。
 私は館内をゆっくりと歩きながら、めったにこれだけ贅沢な時間の過ごし方はないだろうと思った。見たいものは見、見たくないものの前は素通りする。たいへんわがままな自分本位の見方であるが、こういうことのできるのは、博物館とか、美術館とかいったところだけである。こうした自分本位の、誰からも犯されない時間が流れている場所は、ほかにはなさそうである。外国の美術館でも同じであるが、この場合は、めったに来ることはできないと思うので、一応何でも見ておこうといった気持ちになる。日本の場合は、それほど欲深い気持ちにはならない。
 美術品というのは、ただ見るだけである。こちらが語りかけない限り、いつも黙っている。その替わり、こちらが語りかけて行けば、いくらでも向こうから語りかけて来る。その前にいつまで立っていようと、すぐそこから離れようと自由である。音楽を聞くにも、演劇を見るにも、書物を読むにも、時間が必要だが、その点美術品というものは少しもこちらを束縛しない。
 そうしたものが並んでいる博物館とか、美術館といったところは、現代で最も有難い贅沢な場所である。そこに居る限り、ひどく上等なものに取り巻かれているが、いささかも犯されることはないのである。

作品社「日本の名随筆・91 時間」所収。

 

 ぼくも、特別展があるときは、東京国立博物館などへはよく行くのだが、そうしたときに、特別展がないときに、ゆっくり東洋館だの、法隆寺国宝館だのを見るのもいいなあと思ったことがある。昨日、この文章を読んで、そうだ、この手があるなあと思った。

 とにかく、「定年後」が思いがけず1年前倒しでやってきて、「ほとんどまったく自由な時間」をどう過ごすかが、おおきな問題となってきている。もちろん、いろいろとやりたいことはあるのだが、それでも、もう少し何かないかと思っていたので、「これはいける」と思ったわけだ。

 ようやく手に入れた自由な時間なら、できるかぎりその時間を「贅沢」に過ごしたい。しかし、その「贅沢」とは、「ほんとう贅沢」でありたい。ありがねはたいて、世界一周のクルーズに出掛けるだけが「贅沢」ではなかろう。何が、「ほんとうの贅沢」なのかを見極めるためには、世俗的な価値観によってすっかり硬直しきった精神を解きほぐし、柔軟な思考をめぐらし、「自分本位」の価値を見いだすしかないということだろうか。


 

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