65 とまどう確率

2014.2.20


 検査にも、同意書にサインを求められるものとそうでないものの2種類がある。同意書というのは、実は詳しく読んだことはないが、要するに、この検査のリスクを承知の上で、つまり同意して、検査を受けますという書類である。これは、コンピュータのソフトをインストールするときなども、必ずといっていいほど現れるもので、珍しいものではない。

 前回書いた「心臓カテーテル検査」は、ぼくだけではなく、家内のサインまで求められた。しかし、たとえば、胸や腹のレントゲン検査や、採血などは、同意書などない。そんな検査で死ぬことなんてまずないからである。しかし、採血などは、死なないまでも、血を採られている間に気分が悪くなってしまう人は結構いる。ぼくも1度だけ、気の遠くなるような気分になったことがある。でも、「採血中に気分が悪くなっても文句なんか言いません。」などという同意書など書かない。レントゲン検査なんて、ただ立っているだけだから、問題はないはずだが、しかしよく考えてみると、一定量の放射線を浴びるのだから、なんの問題がないわけではないわけだが、それでも、「私はこのレントゲン検査による被爆についてよく知っており、それによって将来なんらかの病気になるリスクをよく知ってこの検査を受けます。」なんて同意書は書かない。

 CTスキャンの検査も同意書なしだが、これが、造影剤CTスキャンになると、ちゃんと同意書にサインを求められる。その前に、検査の担当医師が説明をする。数字はよく覚えていないが、造影剤にアレルギー反応を起こす人がいて、千人に1人ぐらいが、軽いアレルギー症状(たぶん湿疹など)を起こし、1万人に1人ぐらいが、アレルギー反応で血圧が低下し、そして10万に1人ぐらいが死にます、とかいう説明を義務的に淡々とするのである。

 手術の前にこの検査を受けたときには、10万人に1人が死ぬと言われても、何とも思わなかった。そんな確率は問題にならない。何しろ、ぼくのこれから受ける手術は、20人に1人は死ぬと言われたのだ。(つまり死亡確率5パーセント)そんな手術を受ける人間が、10万人に1人死にますけどいいですか、と言われてビビるわけがないではないか。

 ところが、20人に1人が死ぬと言われる手術を無事に終えて、退院の話もチラホラ出始めたころ、血管や心臓の最終チェックとして、もう一度この造影剤CTスキャン検査を受けることになった。その前日、病室に検査の担当医がやって来て、同意書にサインしてほしいと言う。例によって、リスクの確率を機械的に説明した後、「まあ、年末に1度受けていらっしゃるのですから、たぶん大丈夫なんですけどね。ただ、ときどきいらっしゃるんですよ。前に受けた検査で、抗体ができたりすることが稀にあるんです。」なんて言う。スズメバチも、二度目に刺されると危ない、なんてことが瞬間的に思い出され、急に不安になってしまった。何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。「たぶん大丈夫」なら、それでいいじゃないのって思ったが、まあ医療現場というものは、念には念をいれるのだろう。しかしまた、随分前の話だが、胆石の造影剤検査で亡くなった知人がいたことも思い出され、ますます嫌な気分になっていった。

 翌日、その検査を待っているときも気分は最悪だった。せっかく20人に1人は死ぬという危険な手術が成功したのに、確認のために受けた造影剤CTスキャン検査で死んじゃったらマヌケだよなあ、とつくづく思った。20人に1人だろうが、10万人に1人だろうが、患者にとっては、生きるか死ぬかの五分五分ではないか。10万人の中の1人にぼくが絶対ならないなんて保証はないんだ。そんなことを思って、思い切り落ち込んだ気分で、検査に呼ばれるのを待った。

 そんなことで落ち込むなんてオカシイと思う人も多いだろうが、しかしそれなら、10万人に1人も当たるかどうか分からないジャンボ宝くじを買って、「当たったら何を買おうか。」なんて浮かれてる人だってよっぽどオカシイではないか。ぼくは宝くじなんて絶対に当たらないと思うから1枚も買ったことはないが、こうしたケースになると、ほんのわずかな確率でも無視できず、結局宝くじを買って夢見る人と同じことになってしまう。

 それはそうと、この造影剤CTスキャン検査というのは、ちょっと怖いところがある。もちろん今回初めて経験したわけだが、普通のCTスキャン検査は、カマボコみたいな巨大な機械の中に入って写真を撮られるだけで痛くも痒くもないが、こっちの方は、その前に点滴で造影剤が注入される。その注入される速度が猛烈に速く、胸のあたりから全身にかけて、急にカアッ〜と熱くなる。「急に熱く感じるので、皆さんびっくりされますが、それは正常なことで、大丈夫ですからね。」とちゃんと事前に説明があるので、ジタバタしないですむけれど、これを説明なしでやられたら、それこそ気を失うかもしれない。いずれにしても、説明は、大事である。

 枕が長くなったが、本題の手術である。この大動脈瘤の手術というのは、他の手術と較べて、奇妙なところがある。手術というのは普通は、どこか痛いところ、苦しいところがあって、それを取り除くために行うものである。ところが、大動脈瘤というのは、ほとんどの場合何の症状もない。(ぼくもなかった。)これがあっても破裂さえしなければ、まったくの健康体なのである。その健康体にメスを入れ、一種の病人にしてしまうのだから、そして場合によっては死に至らしめるのだから、とても奇妙な手術なのである。医師も、この手術だけははどうも気が進まないと思う人が多いようだ。

 この奇妙さは、この手術が確率を相手にしているところからくるのだろうと思う。問題は、いつ破裂するかなのだ。最初に診察してくれた益田先生は、大動脈瘤がいつ破裂するかなんて、それこそ「神のみぞ知る」なんですよ、と言っていた。ある限度(だいたい5センチ)を超えると、破裂する確率がどんどん高くなっていく。その確率と、手術をして死ぬ確率を比較して「どっちがお得か?」という話なんですとも言っていた。昔は、ものすごく危険な手術だったので、それこそ「イチかバチか」で手術をしたらしい。耳鼻科の医者だった家内の伯父によれば、「50年程前までは、手術もできない、お薬もないという、とても怖い病気でした。」とのことだ。それがここ半世紀の間に、事情が劇的に変化したのだ。だからもちろん今回のぼくの手術も決して「イチかバチか」の手術ではなかった。

 それでも、この手術の死亡確率は5パーセント。心臓のバイパス手術の死亡確率は1パーセントというから、その5倍にもなるわけで、相変わらず危険な手術であることには変わりはないのである。今は何の痛みもなく、普通の生活をしているのに、どうしてそんな危険な手術を受けなければならないのか。それを納得するのは難しい。

 けれど、見つかった以上、そしてそれが破裂する確率が今も高く、今後も時間の経過とともに確実に高くなっていくことを知ってしまった以上、それをそのまま放置してこれから暮らすなんてことは、小心者のぼくにはとてもできない。手術を受けるしかないと思った。

 その決意を決定的にしてくれたのは、執刀医の鈴木先生の説明だった。先生は、ぼくの大動脈瘤の画像をモニターに映し、紙に絵を描き、懇切丁寧に説明してくれた。アメリカに留学していたころの手術の体験や、それ以後の日本の医療技術の驚異的な進歩についても説明してくれた。日本では、手術の前に、全身にわたってありとあらゆる検査をして、少しでも手術のリスクを減らす努力をしていること。そういうこともあって、この手術の成功率は、日本が世界のトップクラスにあること。そうした説明もあった。

 でも、やっぱり、という気持ちは残る。「それでも亡くなるというケースはやっぱりあるんですよね。」とぼくが聞いたかどうかは記憶にない。そんなことを聞きたいような顔をしたのかもしれない。それを察したのか、「私が執刀したこの手術で、亡くなった方はひとりもいませんよ。」と先生は小さな声で言った。「ま、運がよかっただけかもしれませんけどね。」そう言って照れたように笑った顔には、自信とやる気があふれていた。

 そうか、リスクが5パーセントだといっても、20人に1人が死ぬといっても、それは、この、鈴木先生が執刀した手術で、20人に1人が死んだということを意味しているわけではない。あくまで、世界全体(あるいは日本全体?)での統計的な確率なのだ。鈴木先生がそう言うなら、死亡確率は限りなくゼロに近いということだ。ぼくは、すべてをこの先生、この病院にお任せしよう、それでも命を落とすならそれはもうぼくの運命というものだ、そう思ったのだった。


 

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