61 そして「予感」はあたった

2014.2.2


 あしかり先生の紹介状を持って、12月10日、神奈川県立循環器呼吸器病センターという長ったらしい名前の病院へ向かった。この病院は、かつて長浜結核療養所として設立された病院である。父の弟が、若い頃しばらくここで療養していたことがあったからよく知っていた。でもまさか自分がここを受診する日が来るなんて思ったこともなかった。京浜急行の能見台駅(昔は、谷津坂駅といった)のすぐ近くにある。余計なことだが、この駅のすぐ近くには、高校野球で有名な横浜高校もある。

 あしかり内科から予約済みなので、待つこともなく、胸のCTスキャン検査も5分ほどで簡単に済んだ。あとは、担当医が所見を書くから30分ほど待って下さいというので、待合室で待っていると、10分もしないうちにデータ(CD)の入った袋が届いた。これを持って、あしかり先生のところに行くという手はずである。30分かかると言っていたのに、10分ですんだということは、結局何もないということではないか、何か重大な所見があるなら、もっと時間がかかるはずだもの、などと考えながら、小高い丘の上にある病院を出て、駅へ向かう坂道をくだった。空がきれいだった。

 ぼくのそのときの気持ちは、妙に澄んだものだった。きっと、何でもなかったんだ、そうに決まっている。あしかり先生も「安心のため」って言っていたんだから。そうだ、何もないんだ。明日からは、また普通の今までの生活に戻れるんだ。明るい冬の空の下、そんな気持ちが支配していた。

 能見台駅から京急に乗った。やって来たのは、2000系の古い塗装バージョンである。たった、1編成しかないこの電車に乗れたというのも、縁起がいい。やっぱり何もないんだ。そう思う反面、では、あの「モヤモヤ」はいったい何だろう。何にもないなら、あしかり先生があんなに拘るわけがないじゃないか。きっと何かがあるんだ。やっぱり肺がんなのではないか? それとも何か別の腫瘍か? そういった不安がまたわき起こってきた。妙なことに、ぼくは、あしかり先生が呟いた「大動脈瘤」という言葉をそれほど気にとめていなかった。むしろ、肺がんなのではないかという不安が大きかったのだ。

 上大岡駅から、あしかり内科に直行して、順番を待った。名前が呼ばれた。データはすでに渡してある。どうか先生が、「あ、山本さん。よかったね。何にもありませんでしたよ。」と言ってくれますようにと、祈るような気持ちだった。

 しかし、診察室に入ると、あしかり先生は、茶色い封筒を開け、所見を見ながら言った。「残念ながら、ぼくの予感があたってしまいましたねえ。」ぼくは、あまりのことに舌も引きつり「え? やっぱり肺がんなんですか?」と聞いた。「肺がんじゃありませんよ。大動脈瘤です。だいたい5センチぐらいの大きさのようですね。」と言いながら、データの画像を見て、「でも、よかったね。」と小さい声で言った。

 この後ぼくが放った言葉は、実に恥ずかしいトンデモナイ言葉だった。「だって、先生、ぼくは大動脈瘤の手術で死んだ人を知っているんですよ。」と言ったのだ。これは正確なことではない。ただ、ある著名な書道家が、大動脈瘤の手術の2日後に死んだということを知っていたというだけのことだ。2006年のことである。ただこの簡単な記述だけでは「手術で死んだ」とは言えない。けれども、大動脈瘤の手術はそれほど簡単なものではないということは何となく知っていたのだ。ぼくは手術の恐怖におののいた。

 あしかり先生は、なんとも言えない困ったような顔をしてぼくを見ながら、「そうですか。でもねえ、これは放っておくことはできませんよ。専門の病院の診察を受けなければね。もっと正確にわかる造影検査もしなければ。」と諭すように言った。「どこの病院にするかも考えないとね。」という先生の言葉も耳の奥には届かなかった。

 診察室を出て、待合室に茫然として座っているぼくに、ここのベテランの看護師さんが「山本さん、よかったじゃないの。はやく見つかって。」と声をかけてくれた。それでも、ぼくには「よかった」とはとうてい思えなかった。

 ぼくは絶望感にただただうちひしがれて家に帰った。いったい今日は、何という一日なのだろう。これはほんとうのことなんだろうか。ぼくは悪い夢を見ているんじゃないだろうか。

 家内は買い物に出かけていて家にはいなかったが、しばらくして帰ってきた家内に、その絶望感をぶつけた。大動脈瘤だった。ひょっとするとこの手術で死んじゃうかもしれない。どうしよう。などといった言葉が次から次へとぼくの口から繰り出され、家内を困惑させた。

 ぼくは、いつだってこうなのだ。自分の不安をぐっとこらえて、妻に余計な負担をかけまいとするというような男らしい態度をとることができない。これじゃまるで子どもだ。還暦をとうに過ぎたというのに、ほんとうにナサケナイったらありゃしない。医者がせっかく病気を見つけてくれたというのに、それに対して感謝の言葉を言うこともできず、恐怖と不安だけをぶつけ、そしてまた妻にも心配をかけるようなことしか言えないなんて。

 どんな言葉をどれだけ家内に言い続けたか覚えていない。しばらくぼくの言葉の嵐に耐えていた家内は、突然ぼくの言葉を遮ってきっぱりと言ったのだった。「とにかく、悦ちゃんに電話! そこからよ、なにもかも。」


 

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