52 楽しい人生?

2013.11.8


 職員室で若い教師たちと話をしていたところ、生徒にどんな人生を送りたいかと聞いたら、ヤマモト先生みたいに楽しい人生を送りたい、って言った子がいましたよ、なんて言う教師がいた。ええっ、そうなの? オレはちっとも楽しい人生なんて送ってないよ、むしろ苦しいよ、と返すと、いやあ、でも先生はいかにも楽しそうに授業をしているって生徒は言ってましたよ、なんて言う。

 その場はそれでおしまいになったが、しばらくして、う〜ん、そうかもしれないって思った。ぼくが授業をやっている様子は、最近では、「いかにも楽しそう」と見えても仕方がないかもしれない。実際に、教壇で話しているぶんには「楽しい」という言葉がぴったりくるのだから。でも、だからといってぼくが「楽しい人生を送っている」とはいえないし、まして、年端もいかない子どもが憧れたり、目標にしたりできるような「人生」ではさらさらない。

 教師になりたての頃は、教壇で話すのが苦しくて辛くて、どうにもならなかった。教師になったことを心底後悔する日々が続いた。そして、教職という忌まわしい職業から何とかして脱出したいと念願しつつ、どうしたらいいのか分からなくて足掻いていた。

 しかし、亀の甲より年の功とはよく言ったもので、授業を「楽しそう」にできるぐらいには「成長」した。しかし、相変わらず、授業の前は憂鬱である。古文や漢文なら、教えることは決まっているから、それなりに「予習」さえしておけば、取り立てて不安はないのだが、現代文の授業となると、毎回、これで果たして授業が成立するのだろうか、生徒はついてきてくれるだろうか、途中で何にも話すことがなくなって教壇で立ち往生してしまったらどうしようとか、思わない日とてないのである。

 職員室で教員たちと談笑していても、始業のベルがなると、あ〜っとため息が出る。ああ、嫌だ、教室へ行きたくない。このまま家に帰ってしまいたいとすら思うことだってある。でも、教室へと続く廊下を足取り重く、トボトボと歩いていくしかない。この様子をぼくは昔から、トサツ場につれていかれる牛のようだと表現しているが、さすがに共感してくれる教師はいない。彼らは、むしろ嬉々として教室へ向かうようにすら見える。それが教師たるものの本当の姿だろう。でも、ぼくは、違う。嫌なのだ。

 そんなに嫌なのに、教壇に立って、生徒の顔を見ると、ガラリと気分が変わる。頑張ろう! って思うわけではないが、何だか、妙に楽しくなってくる。それで、口から出任せの授業が始まる。(ウソです。謙遜です。念のため。)ぼくの話が妙に受けたりしようものなら、果てしない「雑談」の嵐となる。

 生徒が、「雑談」は授業ではないと思っているらしいので、あるときぼくは言った。君たちねえ、オレの授業は雑談ばっかりだって言うけど、雑談にも二種類あるんだよ。つまり「非常に重要な雑談」と「重要な雑談」の二種類だ、と。生徒は呆れてアハハと笑い飛ばし、相手にしてくれなかった。

 まあ、いずれにしても、ぼくが「楽しい人生」を送っていると生徒が考えることは間違いではあるけれど、「楽しそうだ」と彼らが感じることは間違いとは言えない。そしてここからが「非常に大事な雑談」なのだが、おそらく誰でも自分が「楽しい人生」を送っているなんて思えないだろうが、それでも他人に「楽しそうだ」と思われることは、悪いことではないだろうということだ。

 少なくとも「楽しそう」な人は、他人を「楽しく」できる。それができれば、本人が楽しかろうが苦しかろうが辛かろうが、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。そう思うことにしたい。


 

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