50 賢治の幻燈

2013.10.26


 宮沢賢治の詩や童話の中に、よく「幻燈」が出てくる。この前「一日一書」に書いた、『小岩井農場』という詩の中にも、「あすこは空気も明瞭で、樹でも艸でも幻燈だ」という一節があった。また限りない美しさをたたえた童話『やまなし』も、「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」という言葉で始まっている。この「幻燈」というものが、どのようなものなのかを、多分若い人たちは知らないだろう。

 ハイビジョンだの、ブルーレイディスクだのの時代に、「幻燈」の持っていた魅力を説明するのは難しい。「幻燈」というのは、簡単に言えば、スライド映写機によってスクリーンに映しだされる映像であり、またそれを映写する機械である。それ自体は、今でも学校の授業などでその気になれば使うこともできるし、スライドの教材というのも国語科の研究室に山ほどある。ただ、「その気」にならないだけのことだ。

 ふと、今、思い出したが、このスライド教材に関しては、その昔、宮沢賢治や高村光太郎などについての教材を作ったこともある。確か学研が出していたシリーズだったと思う。いろいろある写真を選び、それに解説を付けるというような仕事だった。幾らもらったか覚えていないが、出来上がった教材を貰ったことは覚えている。家にあってもしょうがないので国語科の研究室に寄付したが、誰ももう使わない。ビデオでずっといいものがあるからだ。

 しかし、宮沢賢治の詩や童話の中にでてくる「幻燈」は、時代的にはもっと古いものだから、こうしたカラーのスライドだったとは思えない。カラー写真というものは、少なくとも戦後の世の中で一般化したはずだ。というのは、写真に凝っていた父が、ぼくの幼い頃に、カラー写真をコダックのフィルムで撮り、それをわざわざアメリカに送って現像して貰っていたことを覚えているからだ。昭和30年代の頃の話である。その時代、日本の技術はまだそんな状態だったのだ。

 小学生の頃、オモチャ屋で、幻燈機を買ったことがある。それで何を見るかというと、マンガのフィルムを見るのである。もちろん白黒で、長いフィルムを幻燈機にかけて、少しずつずらしていくと、絵がかわっていく。それを襖かななんかに映して見るわけだ。しかし、そのフィルムはセルロイドで出来ているので、一枚の絵を長く見続けていると、幻燈機の光で熱くなり下手をすると燃えてしまう。そんなことになっては大変だから、どんどん先へ進める。でも、セルロイドの焦げたような、あるいは幻燈機のブリキが焦げたような、焦げ臭いにおいがするのだった。その匂いを今でも懐かしく思い出す。

 マンガといっても、何だかヒゲ面の豪傑が、イノシシに追いかけられて木に登ったというようなシーンしか覚えていない。それでも、暗くした部屋で、白い襖に映しだされる映像は、紙のマンガとは違った魅力があったのだ。

 宮沢賢治が、家で見た、あるいは学校で生徒に見せた「幻燈」は、果たしてどのようなものだったのだろうか。調べればすぐに分かるような気もするが、調べずに想像するのも楽しい。

 いずれにしても、それはハイビジョンやブルーレイディスクとは、比較もできないほどの劣悪な映像であったろうが、賢治はその映像に胸をふるわせていたのだろう。そして、賢治は言葉で「幻燈」を作った。賢治が言葉で描き出してくれた「幻燈」は、ハイビジョンやブルーレイディスクを遙かに超える解像度を今も保っている。それは『やまなし』一篇を読めばすぐにわかる。

 言葉が作る映像は、時空を超えて新しい。


 

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