49 つかみ所のないところでつながっている

2013.10.18


 音楽を聴くと、絵が浮かぶことがある。絵を見ていると、音楽が聞こえてくるような気がすることがある。詩を読んでいると、音楽が聞こえてきたり、絵が浮かんだりすることがある。そして、書を見ていると、絵を見ているような気分になることがあるらしい。書の場合だけ「らしい」と書いたのは、まだ書を見る経験が浅くて、「これは絵だ」と強烈に思ったことがないからだ。もちろん、前衛的な書の場合は、絵を思い浮かべたことは何度もあるが、分かりやすい字の場合は、あまり絵を感じたことはない。

 先日の書展で、ぼくが出品した「残響」という作品を見て、「絵を見ているようだ」という感想を漏らした方がいたらしいということを耳にして、ちょっとびっくりした。けれども、思い返してみると、今まで何度もそのような感想を耳にしたような気がする。そういう感想を耳にしながら、あまり気に留めていなかったということだろうか。

 音楽、絵、詩、書といった芸術的な表現において、それぞれが、どこかで連通管のようにつながっていて、何かが行ったり来たりしているのかもしれないと考えるのは、分かりにくいけれど、何となく楽しいことだ。その「何か」って何なのだろう。すごく抽象的にいうと、「美的感動」っていうことになるのだろうか。「心の琴線に触れる」というけれど、その琴線に触れた振動のようなものだろうか。

 音楽と絵、あるいは映像の関係は、いちばん分かりやすい。映画に音楽が使われた場合だ。それまで聞き慣れていた音楽が、映像を伴って急に魅力的に輝き始めたりする。クラシック音楽が特にそうだ。例えば、マーラーの交響曲第5番のアダージョは、ぼくはまったく聞き慣れていなかったのだが、あの名作『ベニスに死す』の冒頭に使われたことで、強烈に心の奥にしみ通ってしまった。あの曲を、あのイメージ抜きで聞くことができないくらいだ。これはこれで困ったものだが、やはり、映画にとっては音楽は実に重要な役割を果たすわけだ。

 こういう場合に比べると、ある絵を見ていて、ある曲を偶然に思い出すということは、あまりないだろう。あれば、すごいことだが、音楽を聴いているような気分にはなっても、特定の曲には普通は至らないだろう。すると、絵を見ていて感じる「音楽を聴いているような気分」というものの実態は、やはりつかみ所がない。

 書を見ていて感じる「絵を見ているような気分」は、どうだろうか。書は意味を表す文字だから、どうしてもその意味、つまり「書いてあること・書いてある内容」を「読んで」しまうのだが、そういう意識の動きを一端とめて、文字を「絵」として見る。つまり、線あるいは面の集合として見る、ということになる。そしてそこに何らかの「心の琴線に触れる」ものを感じ取るということになるのだろう。これもやっぱりつかみ所がない。

 「つかみ所のない」ことについて書くと、どうしても「つかみ所のない」文章になってしまうが、文章というものも、ひょっとしたら「分かりやすい」表現だけが大事なのではないのかもしれない。現代詩は分かりにくいという悪評が昔からあるが、それは、「つかみ所のない」ことを表現しようとあがいてきたからかもしれない。

 何だか知らないけれど、心がふるえる、とか、どう言っていいのか分からないけれど、何だかうれしくなるとか、そういったいわば言葉にならない心の動きのようなものを、画家は絵に、音楽家は音楽に、詩人は詩にしようとしているのかもしれない。書家も、きっとそうなのだ。

 それなら、みんなつながっている。そして、それなら、芸術と呼ばれるジャンルのものに対してぼくらがとるべき態度は、一つしかないことになる。その作品と「ともにある」ことだ。けっして「分かろう」としないことだ。芸術にとっては、「分かろうとしないで、そばにいる。」ということは、「分かったつもりになって、そこから立ち去る。」よりも数倍も価値のあることではなかろうか。


 

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