48 朝ドラの「顔」

2013.10.12


  あっという間に、『あまちゃん』終了から2週間。『ごちそうさん』も始まって第2週を終えた。そしてつくづく思うのは、朝ドラは「顔」が大事ということだ。

 遊川和彦の脚本がダメで、クドカンの脚本が素晴らしいということは、何度も書いてきたが、それなら今度の森下佳子はどうなのか。今のところ、可もなく不可もなし、60点ぐらいといったところだろうか。しかし、問題はそういう脚本がどうのこうのという以前にあることが分かった、というか、分からされた。

 簡単なことだ。朝ドラのヒロインは「かわいい」ことが絶対条件なのだということだ。あの希代の駄作『純と愛』も、どんなにストーリーの展開に腹を立てても、夏菜の顔を見ているだけで、何とかやり過ごせた。夏菜はかわいい。少なくとも、ぼくはかわいいなあと思って見ていた。こんなにかわいい子に、こんな役はかわいそうだなあと思って見ていたわけだ。

 しかし、今回の杏は、ちっともかわいくない。更に、第2週では17歳の頃を演じるということで、ものすごく無理してかわいい演技を強いられているわけだが、それが不自然で「かわいくない感」を増幅してしまっている。

 杏は、いわゆるモデル顔なのだろう。先進的なファッションを身にまとって、ツンとすましていれば、相当に魅力的なのだろうと思うが、朝ドラに毎日登場して、お茶の間に笑顔と涙を届けるには向いてない。杏には気の毒なことだが、しかし、今後の展開の中で、あの顔が生かされていくことを願うばかりだ。

 それにしても、『ごちそうさん』を見ていて、どうにも落ち着かないのは、果たしてこれが「大正時代」というものだろうか、ということだ。いわゆる「大正デモクラシー」の時代で、世の中が平和で安定していたのだろうとは思うけれど、明治が終わってわずか10数年という時代には、どこかしら、うらぶれた、貧乏くさいところが諸処にあったのではないかしら。これから大不況の時代がやってきて、戦時体制に突入していくという時代の空気のようなものが、どこにも感じられないのは、あの頃がほんとうにこういう脳天気な時代だったのか、それとも、描き方が悪いのかがどうにもよく分からないのだ。

 戦時下や戦後の世の中を描くのは、割合に簡単なことだ。『梅ちゃん先生』にしろ『おひさま』にしろ、戦中・戦後の描き方にはそんなに違和感を感じなかった。けれども「大正時代」は、どうにもイメージがつかみにくい。というか、ぼくらのほうに何か固定的なイメージがない。だから、こうした違和感のような、「よく分からない感」のようなものが生まれてしまうのかもしれない。

 ギャグの難しさも痛感した。『あまちゃん』は、ギャグの連発で、たまにははずすこともあったが、9割は当たっていた。それが『ごちそうさん』では、当然のことかもしれないが、クドカンには遠く及ばない。たとえば、第2週に「鉄筋コンクリート」を「テッコンキンクリート」と言ってしまうというギャグが出てきたが、これはいかにも古くさい。ぼくらが幼い頃によく言っていたギャグで、てっきり昭和のギャグと思っていたが、大正時代からあったのだろうか。あったとしても、それを現代の朝ドラで言わせて、笑いをとることができると思っているのだろうか。言い古されたギャグだと知らない若い人は、プッと吹き出すのかもしれないが、知っている人は、「そうか、大正時代からこんなギャグがあったのか。それは知らなかった。しかし、面白いといえば面白いのかもしれないが、今聞くとやっぱり面白くないなあ。」という複雑な心境を経て、ちょっと笑ったり、笑えなかったりするのではなかろうか。

 話の展開の中で、ちょっと笑わせたいと思うなら、時代考証などすっ飛ばして、今受けるギャグを入れたほうがいい。落語だって、歌舞伎だって、江戸時代の話の中に突然現代のことを入れて笑いを取るなんてことはごく普通に行われているのだから。

 まあ、いずれにしても、まだ始まったばかり。とやかくいうよりまずは楽しみたいところだが、それにしても、足の長い女性が袴をはくとものすごく似合わないことが、びっくりするほどよく分かった。それとも、わざと特別に似合わないような着付けをしているのだろうか。これもよく分からない。


 

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