47 どうも力んでしまう

2013.10.5


  肩こりがひどい。もちろん肩だけではない。背中や腰も、ひどいときはどうにもならない。腰などは、痛いのが常態となっているので、かえって気にならないくらいのときもあるが、肩こりはやっぱり、頭に近いからか、ひどくなると辛い。それで、最近では、1週間に1〜2回は、マッサージにかかっている。それで何とかもたせているという感じである。

 どうして肩がこるのか知らないが、ただ、ぼくは昔から肩に異様に力が入ってしまうタチのようだ。教師になって間もなくの冬だったか、登校途中、後ろから歩いてきた先輩の教師に肩を叩かれ、「ほら力を抜いて!」って注意されることがよくあった。なぜか肩をすくめるようにして、ぐっと力を入れてしまうようなのだ。これは、今でもまったく変わっておらず、気がつくと肩を落とすようにしているのだが、なかなかこのくせがなくならない。

 どうして肩に力が入ってしまうのか。これもよく分からないが、精神的にも、「肩に力が入っている」ことが多いのは確かだ。何をやるにしても、自分としてはいい加減のつもりなのだが、どこか「がんばらねば」と思っているところがあるらしく、つい力が入り過ぎてしまう。疲れたときなど、一日中ダラダラとしていたいのだが、それができない。無理してそうしようとすると、「頑張ってダラダラする」みたいなヘンテコリンなことになってしまう。それじゃ何の意味もない。ほんとに困ったものである。

 ぼくがこうなってしまったのも、考えてみれば、中学生の頃の教育に原因がある。何度も書いてきたことだが、栄光学園の初代校長のグスタフ・フォスというドイツ人神父の「張り合いを持って生きろ。」「ダラダラするな。」「やるべきことをやるべきときにしっかりやれ。」みたいな言葉が、あまりに毎日繰り返されたために、もうぼくの精神のど真ん中にどっかと腰を据えてしまっていて、崩しようもないのだ。

 中学生、そして高校生の頃は、そうした言葉に励まされもし、自分なりに頑張ってもきた。しかし、さすがに段々歳を重ねてくると、そんなに頑張ってみても人生たかが知れているじゃないかと思うようにもなってはきたものの、それでも心のどこかでフォス神父の言葉がまるで通奏低音のように響いていて、あ〜あ、何の因果か、と思ってしまう。

 頑張ること、努力すること、怠けないこと、力を抜かないこと、こうしたいわば「プラス」方向の態度を無条件によしとして、「力を抜くこと」「怠けること」「何もしないこと」「時間を無駄にすること」といったような態度を全然積極的に評価しないゲルマン的精神(?)のようなものの呪縛から解放されるためには、実は相当の「修行」が必要なのだ。

 最近、ぼくの書いた1枚の書作品に関して、「『さらり』だけれど『しっかり』書いてある」という批評をいただいた。そしてもう1枚の書作品に関しては、「ちょっと頑張り過ぎ」という批評をいただいた。「頑張り過ぎずに、さらりと書いてあるように見えて、よく見るとしっかり書いてある。」というのが理想だということになるのだろうか。こうした批評は、そのまま人間としての生き方につながってくる。

 あっさりとしているようだけど、けっしてちゃらんぽらんではなく、しっかり考えているところもあり、そうかといって無駄に力を入れすぎていない、という生き方、あるいは考え方。

 これはやっぱり自然に身につくものではなく、それなりの「修行」が必要だろう。知らず知らず肩の力が入ってしまうように、どうも日々の生活の中で、どこかで力んでいるのだとすれば、意識して精神の凝りをほぐすことが必要となってくる。そのコツをぼくはまだつかみかねている。


 

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