46 幸福なドラマ

2013.9.28


  とうとう終わってしまった。あと10ヶ月、いやあと10年は見続けたい気分だったのに、あっという間に最終週を迎え、あっという間に、全部きちんとカタがつけられ、終わってしまった。これから、何を楽しみして生きていけばいいのかというため息が全国に充満している、といったら大袈裟だろうが、でも、そうした思いを述べる人がぼくの周囲にも少なくない。

 どこかで誰かが書いていたと思うのだが、『あまちゃん』は、まさに「今」という時代の空気をリアルに描いている。現実にはあり得ないおとぎ話のようでありながら、そこに出てくる人間は、今の時代を生きる等身大の人間である。毎回毎回コントの連続でありながら、マンガに堕していない。これは凄いことではなかろうか。

 『あまちゃん』と同時に話題になった『半沢直樹』は、現実の銀行をリアルに描いているように見えながら、その内実は制作者自身が言うとおり劇画である。現代版水戸黄門である。半沢直樹が家庭に戻ると、妻(上戸彩)のあまりの脳天気な演技(あるいは演出?)のためか、まったく違うトーンのドラマになってしまう。そうなると、ただただ現代の「越後屋」たる大和田常務(香川照之)の悪たれ顔に見惚れるしかなくなるというわけである。半沢直樹の倍返しにどんなに痛快感を味わっても、ドラマが終わればそれで終わり。水戸黄門たる所以である。

 ところが、『あまちゃん』は、全編にわたってギャグに覆われていながら、毎回毎回心にジーンと沁みてくる。生きる希望が湧いてくる。登場人物が、いつまでもぼくらの心の中に生き続ける。そのことによって、どれだけ多くの人が、このドラマに励まされ慰められたことだろう。

 最大の功労者はもちろん脚本の宮藤官九郎だが、天野アキ役の能年玲奈がやはり素晴らしかった。こんなに気持ちのカワイイ女の子がこの世に存在しているのだという驚きすら感じさせた。最初から最後まで、親友のユイちゃんに憧れ続けた一途さ、まっすぐさは、どのドラマにも見られないものだった。多くの人が能年玲奈の「透明感」というが、その「透明感」は、もちろん若い女優だけの持つ肌の透明感でもあろうが、何よりも心の「透明感」なのだ。一切の人間的な濁りがない。感情のドロドロした停滞がない。アキの心は、北三陸の海のようにどこまでも透き通っている。

 こんな女の子が現実にいるわけがない。いるわけがないからこそ、ドラマの中に出現させたことが素晴らしいのだ。それも、「そんな子いるわけないじゃん」という反発を感じさせることなく、まるで、ぼくらのすぐそばにいてもおかしくないといったリアルさを持ってドラマに出現し得たことの素晴らしさを、ぼくは何度でも讃えたい。ぼくらは、アキの心を、言動を見て、そうか、そういう感じ方もあったんだと気づかされ、日々の人間的葛藤の解決への糸口を与えられる。だから勇気を与えられる。アキちゃん、クドカン、万歳! そしてありがとう!

 それにしても、贅沢なドラマだった。役者たちが、ものすごかった。みんな喜んで出演したのだろう。ベンガルが映画監督として、たった1回だけ出演し、独特の声とイントネーションで「よ〜い、スタート!」のかけ声をかける、それもほとんどふざけている調子でやりたい放題やって、それで二度と出ないなどという贅沢は、他では見たことがない。

 小泉今日子、薬師丸ひろ子の共演だけだって夢のようなことだったが、松田龍平を初め、これ以上考えられないような充実した役者たちがみんな水を得た魚のように生き生きと演技していたことを思い出すと、思わず胸が熱くなる。そしてなによりこのアイドルを主人公とするドラマの芯となって、軽佻浮薄に流れそうになるドラマ全体を引き締め、人間の生きる意味と尊厳を感じさせ続けたのが宮本信子だったことを忘れまい。

 朝ドラは、ここで一つの頂点を極めた。このような幸福な、幸福感にあふれた、幸福を与えてくれるドラマは二度と生まれないだろう。そんな気がする。

 ほんとうに、これからどうすればいいのだろうか。


 

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