39 うちひしがれた  

2013.8.9


 8月3日。現日書展を見に上野に行った。午後3時から、書道評論家のO先生の講演会があり、それを聞く予定だったので、その前に国立博物館へ行き、そこから東京都美術館へ行って、現日書展を見て、そのあと講演会を聞くということにした。

 国立博物館へ行ったのは、「和様の書」を見るためだった。そんなに行きたいと思ったわけではないが、招待券があったので、まあ行くだけ行ってみよう、ついでだし、という軽い気持ちだった。しかしこれがすごくて、1時間経っても半分も見終わらない。国宝・重文といった作品が目白押しだ。それなのに、会場は空いていて、見ようと思えばいつまでも見ていられる。

 ぼくは仮名は本格的に勉強したことはないし、いわゆる「古筆」(「奈良時代から鎌倉時代にかけて書かれたすぐれた筆跡。特に和様の書や仮名書きのものをいう。」広辞苑)というのは、そのよさがいまいち分からない。けれども、今回、ずらりと並んだ小野道風とか藤原佐理とか藤原行成とか(これが三蹟)いった人たちの書を見ると、さすがに圧倒される思いで、特に、古今和歌集の「本阿弥切」(伝小野道風)は、その美しさに驚嘆した。シミひとつない、まるで昨日買ってきたような紙に、今書いたばかりとでもいうような鮮明な筆の跡。書かれてから千年以上も経っているのに、この「新しさ」はいったい何なのだろうと、ため息が出た。

 時間があったらもう一度来ようということで、東京都美術館に向かった。現日書展には、自分の作品も飾られているので、どんなふうになっているのか楽しみでもあった。書を出品するときは、書いたまんまのしわくちゃの紙の状態なので、きちんと表装されているのを見ることができるのは、展覧会の会場だけなのだ。

 現日書展の会場に入って1分もしない頃、大きな声で作品についてああだこうだと言っている男性がいた。失礼な人がいるもんだなあと思って見ると、何とこれから講演をするO先生ではないか。ぼくはお会いしたことはなかったが、写真でお顔だけは知っていたのだ。その周りにいて批評を聞いている数人は、これも面識はないが、現日会の幹部同人の方々である。

 どうやら講演会の前に、主だった同人の方々の作品の批評をしているらしい。その批評があまりに面白いので、ぼくは思わず引き込まれてしまい、同人の方々に紛れてO先生の後をぞろぞろくっついて行った。先生は、ときどきチラッと視線をぼくの方に送り、「何だ? こいつ」って顔をしたが、まあいいや、別に会員限定の批評会ではないだろうと思ってかまわずくっついていった。

 先生は、とにかく、作品を見た瞬間に批評する。褒めることもあるが、批判が圧倒的に多い。それも辛辣きわまる。辛辣なのだが、悪口ではない。なぜダメか。どこがダメなのか。あるいはなぜいいのか。どこか素晴らしいのか。そうしたことを短い言葉できちんと言う。それを聞いて作品を見ると、こんなぼくでも、なるほどなあなんて思えてしまう。

 ぼくからすればそれこそ天上の作品としか思えないような素晴らしい作品が、コテンパンに批判されるのを目の当たりにして、書というのは凄い世界なんだなあとつくづく思い知ったのだった。

 およそ30分も傍についていただろうか。講演会の時間も迫ってきたし、明日も来るけど、とにかく自分の作品だけでも見ておこうと、O先生から離れ、自分の作品がありそうな展示室に行った。

 ぼくは「準同人」なので、「同人」「同人格」の下の「地位」にいる。どんどん部屋が奥まっていく。そして自分の作品が目に飛び込んで来た。

 その時のぼくの気持ちは、もう何ていったらいいんだろうか、とても言葉では表現できない。「わあ、何だこりゃ! ダメだ、ダメだ!」と心の中で叫び、思わず作品から目を背けた。O先生の声が頭の中にワンワン響いた。「ダメだなあ。工夫がないよ。普通だろ、これじゃ。現日にいるってことはね、人とは違うことをやるってことでしょ。」といった同人の作品に向けられた辛辣な言葉が束になって襲いかかってきた。恥ずかしさに、顔が赤くなるのを感じた。

 今年の春の現日書展では、自分の作品が一番輝いて見えたのに(だいたいそう感じるほうがどうかしているわけだが)、今回は、もう壁からひっぺがして持ってかえりたいような気分だった。

 「和様の書」で国宝やら重文やらを山ほど見て、そして現日書展で同人の作品が容赦なく批判される現場に遭遇し、その直後に自分の作品を見て赤面した。こうまとめてみると、どう考えてもこうなるしかないという必然的な展開なのだが、その当座は、もうどうしようもないほどうちひしがれた。

 ぼくのような自己陶酔型の人間には、よい薬だったわけだが、考えてみれば、「うちひしがれる」ことは当然としても、それは絶望感というようなものでは決してない。自分の今やっている書作という行為が、どんなに拙いどうしようもないものであっても、それが、遙か昔からの伝統に「つながっている」からこその「うちひしがれ」なのだ。細くて今にもちぎれてそうな糸だが、書の末端につながっている。その伝統の末の末の末端に、かろうじてつかまっている。だからこそ「うちひしがれる」ことができるのだ。

 そう思いなおして、これからも、細い糸を手繰って、手繰り寄せて、もうちょっと太い糸に辿り着く日がくることを夢見ることにしよう。なんて思うこと自体、単なる思い上がりに過ぎないとしても。


 

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