36 今日から夏休み   

2013.7.20


 今日から学校も夏休みである。教師になって今年で42年目。小学生から数えると、58回目の夏休みということになる。よくまあ休んだものである。そして来年の夏休みが「最後の夏休み」となる。その後は、夏休みどころのさわぎではない。それをどう表現したらいいものか。巷では「サンデー毎日」とか「全日空」とか呼ぶらしいが、「夏休み」になぞらえていえば「四季休み」である。春休みと、夏休みと、秋休みと、冬休みが、それぞれだいたい3ヶ月ずつある、ということだ。学生やサラリーマンなどからすれば、夢のようなことである。

 その夢のようなことがわが身に実現しそうになっても、もう「夢のようだ」とは感じられない。何ごとも実現してしまうと、感激も薄れるものだ。悲しいことである。

 そもそも、教師になってからの夏休みというのは、もう、退屈の極みで、30日ほどもある休みをもてあましていた。ダラダラ過ごして、夏も終わりごろになると、たいていは肉体的にも精神的にもバテてしまって、ああ、はやく学校が始まらないかなあなどと、ふだんでは絶対に思わないことまでこの時だけは思うようになる。その一方で、ああ、もう終わりかあ、という底知れぬ嘆き。来年の夏休みはもうちょっと充実感のあるものにしたいもんだなんて、若い頃はケナゲにも思ったものだが、最近ではそういうことも思わなくなってしまった。

 夏休みでさえこの始末である。四季休みになったらいったいどうなるのだろう。もう死ぬまで学校は始まらないのだ。半分イヤイヤやってきた教師稼業だが、なんか、まったくないとなると、さびしい。いや、さびしいというよりは、つまらない。といって、どこか雇ってくれる学校を探すなんて気持ちになんかサラサラなれない。今更新しい学校で教鞭をとるなんて考えただけで疲れてしまう。

 とまあ、いろいろ考えるわけである。考えてもしかたのないことを考えるのである。人間というものは、どうしようもないものだ。考えてもどうしようもないことばかり考え、考えなくてはならないことは考えない。しかし、考えなくてはならないことをいくら考えても、結局は、よく分からない。考えれば何とかなるのなら、誰だって会社なんてさっさとやめて、考えることに没頭するだろう。それがそうならないということは、考えても無駄だということなのだろう。

 小人閑居して不善を為す、という。「不善」のうち、最大の「不善」は、よしなしごと(つまらないどうでもいいこと)を考えることかもしれない。兼好法師も、「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心に浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ、ものぐるほしけれ。」(退屈でどうしようもないから、一日中、パソコンに向かって、頭の中に次から次へと溝の泡のように浮かんでくるどうでもいいことをネタにして、構成なんかも考えずにだらだらエッセイなんぞと称して書いていると、いやどうも、バカバカしくて頭がおかしくなってきそうだぜ。)と言っている。そう言いながら結局は「徒然草」なんて本をイケシャアシャアと書いてしまうのだから、「不善」もあながち捨てたものでもない、のかもしれない。


 

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