19 「純と愛」は如何にして駄作となりしか 

2013.3.30


 「純と愛」の最終回の前の回を見ながら、家内が「こんなに名残惜しくないのもないわね。」と言った。ほんとうに、そうだと思った。

 「純と愛」の最終週は、もう「どうでもいから早く終われ。」という気分で、見るのも苦痛だった。どのみちイトシ君は目覚めないに決まっているのに、ときどき手をピクピクさせてみたり(これはよくある筋肉の反応にすぎないという医者の意見が紹介されていたから、目覚めるわけないのに、「ひょっとして奇跡が起きるの?」という期待を持たせるための仕掛けにすぎない。)、純がキスしようとして、ふとやめたりして、これは最後にキスすると目覚めるんじゃないかと気を持たせてみたり、まあ、あらゆる手練手管のオンパレード。

 で、先ほど最終回を見て、ようやくこのろくでもないドラマから解放された。やれやれである。

 この最終回というのが、いかにも、東北の被災地へのエールと感じさせるものがあって、見ようによっては「感動的」なのかもしれないが、ヒロインが、宮古島の海の前でエンエン数分にわたって一人で演説をするというやり方が、ドラマとしては根本的におかしい。誰も聞いていないのに、まるでテレビの視聴者に向かって、オレはこういうことをこのドラマを通じて言いたかったんだよ、立派でしょ、このドラマはただのドタバタじゃなかったのよ、ってなことを、脚本家自身がしゃしゃり出てしゃべりまくっているのだ。もちろん、演説しているのは純だが、純自身がしゃべっているのではない。脚本家が裏でしゃべっているのだ。

 この演説というのが、それこそ「どんなことがあっても私は負けない。奇跡を起こすのは、神様じゃない、人間なんだ。」という実に観念的なことで、それに付随する台詞も、遊川がいちばん嫌っていたはずの(そうじゃなかったの?)「きれいごと」ばかり。おまえはそんな「きれいごと」をいうために、「きれいごと」の「朝ドラ」を壊してきたのかとヤクザのように腕をまくって聞いてみたい。

 「きれいごと」のドラマを壊すのなら、思想も「きれいごと」ではすむまい。ラストもどうせなら、純もあまりのヒドイ人生の展開に絶望しきって、宮古の海へでも飛び込んでしまえばよかったのだ。その方がよほどすっきりする。

 ドラマの発端で、イトシ君は、「人の心が読める」人として出てくる。これがそもそもオカシイのだが、これに関しては、先日の朝日新聞に藤田真文というヒトが、

 ヒロインの夫・愛(イトシ)が他人の心を読めてしまうという設定は、近代の物語では禁じ手だった。相手の心中がわからないがゆえのすれ違いや苦悩からこそ、ドラマが生まれると考えられているからだ。でも、度胸よくやってみると違和感がなく、新鮮だった。

 なんて書いているが、何が「新鮮」なんだ。冗談じゃない。「他人の心が読める」なんていう発想自体、もう古い。「読める」というからには、「他人の心」がはっきりとしていることが前提なわけだが、そもそも他人であれ、自分であれ、「心」なんてどうなっているんだか分かったもんじゃないのだ。「読んだ」と思った次の瞬間から「心」は変わる。そんなもの読めるわけないじゃないか。「読める」という設定が生かされるとしたら、それはたわいもない「おとぎ話」に限られる。朝ドラなんかでやった日にゃあ、それこそぐちゃぐちゃになるに決まっている。それが証拠に、イトシ君の超能力も、途中から実にいい加減なものになってしまった。「人の心が読める」のは病気だったのだそうだ。病気が治ると、「人の心も読めなくなる」という設定だったらしい。バカも休み休み言え。

 病気といえば、このドラマの病気もひどかった。なにせ、ヒロインの母親は認知症で、夫が脳腫瘍である。しかも両方とも完治不能という設定。しかも、イトシ君の脳腫瘍は、もうドラマも終わりかけている頃に突然やってきて、とうとう最後までイトシ君は目覚めない。ドラマが終わったあと、目覚めるのかもしれないが、「眠り姫」と違って、脳幹部の腫瘍を取りきることができなかったのだから、早晩イトシ君は死ぬのだろう。あまりにも重すぎる。バランスが悪すぎる。

 ドラマの中ではさんざんおちゃらけをやっておきながら、設定がものすごく重い。その割りには、登場人物の設定はものすごくいい加減。どこにもリアリティがない。純の弟なんか、いい加減な絵を描いていて、しかも収入などほとんどないというのに、大阪で「個展」をやるという始末。こんなことは挙げていけばもう切りがない。

 最終回は、長々と純が演説して、ホテルはというと、修理中で、イトシ君は死体のように眠り続け(この死体のようなイトシ君の姿をエンエンと映し続けた最終週は、ほんとうに嫌な感じだった)、いつもよりはっきり手を動かしてちょっと「希望」を演出して、肝心のラストなのにイトシ君の親も全然出てこなくて、なんだかもう、現場全体(遊川以外)がやけっぱちになっていて、はやく終わりたいと思っているのがヒシヒシと感じられた。

 前回、落語の「鼠穴」を枕に「純と愛」について書こうと思ったのに、つい落語の紹介が長くなって、「つづく」としたが、ここまで書いてきて、なぜ「鼠穴」を枕にしたのか分からなくなってしまった。たぶん、「鼠穴」の「夢」のリアルさ、「嫌な感じ」、を引き合いにしたかったのだろう。

 「純と愛」を見ていて、ときどき、「てなことは、みんな夢でした。」ってことかなあと思う場面がいっぱいあった。母親の認知症も、父親の水死も、なんか「夢」みたいな感触があった。それは、それらにドラマにおける必然性が感じられないからだった。父親が、あそこで、溺死しそうになった妻を助けようとして海に飛び込み、死んでしまうという展開は、「なんで?」という展開だった。武田鉄矢の事情か? って思うくらいで、父の死はなんの必然性もなく、その後のドラマの展開に何の影も落としていない。むしろ、唯一といっていいほどのリアリティを持っていた父親がいなくなることで、いっそうドラマの展開をどうにでもできるようになったといえる。それが遊川のねらいだったのかもしれない。遊川は、とにかく、ドラマを必然性など無視して、勝手気ままに展開して、悦に入っていただけだ。

 先ほどの朝日新聞で、田幸和歌子というライターは、

 ヒロインの純は誰からも愛される前向きな女性ではなく、独りよがりで友だちが一人もいないという新しいキャラクターだった。登場人物も、純の父母に至るまで欠点を抱えた人だらけ。ヒロインの味方ばかりでご都合主義だった従来の朝ドラとは違い画期的だ。「朝からそんなものを見たくない」という視聴者もいるはずだが、醜さを抱えた人間はリアルで、誰にも思い当たる節がある。朝の忙しい時間帯の時計代わりとしてではなく、一つの作品として朝ドラを鑑賞する層がここ数年で増えている気もする。純の体当たりの真っすぐさは時に相手のコンプレックスをまともに攻撃するので、残酷だった。でも、振り返れば、典型的ヒロインの清純さだって十分に「うざい」。物語の展開には不満もあるが、従来的価値観への批評性だけは色濃く感じた。

 なんて書いていたが、「醜さを抱えた人間はリアルで、誰にも思い当たる節がある」とは恐れ入る。遊川の友だちなのか、この人は。こんな甘ったれたことを書くヤツがいるから、遊川も思い上がるのだ。

 「リアル」とは、そういうことじゃないだろう。「醜さ」を描けばリアルになるなんてことは絶対にない。「ヒロインの味方ばかりでご都合主義だった従来の朝ドラとは違い画期的だ。」なんていうが、「ご都合主義」は、まさに「純と愛」にこそ、ノシ付けて献呈したい言葉だ。田幸和歌子もドストエフスキーでも読んで、「人間を描く」とはどういうことかを一から学んで欲しい。

 「リアル」であるということは、「人間の本当の姿がほんの少しでも見える」ということであり、「醜さ」とは何の関係もない。「純と愛」の根本的な欠陥は、「人間が描けていない」ことに尽きる。役者の肉体・精神のありようを無視して、ただ脚本家の書いた台詞を言うだけの紙人形にする、これが結局「純と愛」を希代の駄作とした。脚本家の罪は重く、それのいいなりになったプロデューサーや演出家の罪も重く、彼らの横暴に耐えた役者たちこそ「いい面の皮」であった。


Home | Index | Back | Next