17 趣味と金 その2 

2013.3.17


 紙・墨・筆・硯を古来中国では「文房四宝」と呼んで大切にしてきた。そのことは書を習う前から知ってはいたが、それほど興味を持ってはいななかった。

 書の習い始めのころは、硯や筆や紙までも先生に買っていただいたものをそのまま使っていた。硯といっても、最初に使ったのは、硯の形をしたプラスチック製のもので、墨をするのではなく、墨汁を入れて使うためのものだった。筆も、ごく一般的なものを太いのと細いのを1本ずつ、これを3年ぐらい使い続けた。そのほか、文鎮(さすがに石というわけにもいかない)と、下敷きと、まあ、それくらいで事足りたわけである。金のかからないことは天下一品。

 しかし、書展に出品ということになると、墨汁では裏打ちしたときに墨がにじんでしまうということで、墨を硯ですることになり、紙も半紙ではどうしようもないので、半切の紙を買う。筆も、違う筆を使ってみたくなる。紙だって、ものによってまるで墨ののりかた、にじみかたが違うということが分かってくる。筆に至っては、細いの、太いのなんていってる場合ではなくなってきて、羊毛筆とか、イタチの毛とか、穂先が短いの、長いのなど、それこそ無限のバリエーションがあって、アレも使いたい、コレも使ってみたいということなり、今では、ざっと数えただけで50本ほどある。金がかからないどころの騒ぎではないわけである。

 それでも、墨はほとんど買ったことがない。それは、もう10年以上も前に、母から何本ももらっていたからだ。母は、何度も書展で賞をもらったことがあり、その賞品の墨を、私は使わないからといってぼくにくれたのだ。とはいっても、そのころのぼくは書とは無縁だったから、机の引き出しの中に、まさに「死蔵」されていたというわけだ。その墨を今は使っているのだが、さすがになかなか減らない。まだ一度も使っていない墨が何本もある。聞いたところによると、墨というものは、新品はダメで、何年も寝かせると墨の色も、ニジミ具合もとてもよくなるらしい。(これを専門的には「墨が枯れる」ということらしい。)とすれば、ちょうど使いごろの墨になっているのかもしれない。

 墨と同じく、硯も小さいものは買ったが、大きな硯は買ったことがない。大きめな硯は、新婚旅行で那智に行ったとき、どういうつもりだったのか、那智黒という石で作られた硯を買ってきたのがあり、(書とは無縁なのに、なんで新婚旅行の記念に硯を買ったのかほんとうに理解しがたい。)それを使っていた。ところが2年程前に、そういえば母からもらった大きな硯があったなあと思い、取り出してみた。これは、長いこと中国での仕事が多かった妹の亭主が、母のために買ってきたものである。しかし、母は、仮名を中心に書いていたので、大きな硯は使わなかったのだ。木の箱に入った20×12センチほどの硯だ。箱を見ると、「澄泥硯(ちょうでいけん)」書いた小さなラベルが貼ってある。おお、あの有名な澄泥硯かと驚いた。多分数万円はするはず。これで墨をすると、那智黒の硯とは全然違う感触。感動して、しばらく専らこの硯を使っていた。

 ところが、つい先日、そういえば、もっと大きくて重い硯ももらったなあと思い出した。思い出したと言っても、存在を忘れていたわけではなくて、あるのは知っていても、大きすぎて使う気になれず、机の下の奥の方へしまい込んでいたのだ。出してみると、片手で持つのもちょっと大変なシロモノで、角の丸まった木箱にきちんと入っている。墨池の上のあたりには、龍なんかが彫られている。ラベルを見ると、「端渓(たんけい)名硯」と書いてある。これこそあの有名な端渓硯ではないか。いや、これとて初めてその名を知ったわけではない。これもやはり10年以上も前に、義弟が母のために中国から買ってきてくれたのだけれど、母は私にはとても使いきれないからおまえのところに置いておいてくれと言ったとき、「端渓」のラベルは見ていた。けれど、それほど気にもとめなかったのは、やはり無知だったからだろう。今では、古いものになると「端渓硯」は、かなりの高額で取引されているらしい。この硯は、新しいものだが、かなり高価なものだろう。義弟は母をぼく以上に大事にしてくれているので、おそらく母のためにと、大枚はたいて買ってきたのだろうと思う。

 まあ、そういうわけだから、長く机の下の奥のほうにしまい込んでいたは、母から預かったものだからという意識があって、使うのをためらっていたからだというのがどうも真相のようだ。

 とにかくそれを、1ヶ月ほど前、そうだ、この硯で墨をすったらどうなんだろうと思って、使ってみたのだ。

 ほんとうに驚いた。この驚きは、今まで「白鶴 まる」とか「黄桜 呑」とか、「ワンカップ大関」とかいった安酒しか飲んだことのない飲んべえが、いきなり「純米大吟醸」を飲んだようなものだといったら分かりやすいだろうか。

 硯の表面に水をたらし、墨をかるく前後に動かすだけで、墨の粒子がさあっと流れるように水に溶け出す。墨を動かすと、墨が硯の表面に吸い付くような感触がある。墨をするという単純なことだが、硯によってこうも違うものなのかと感嘆してしまった。

 紙・墨・筆・硯、これらのどれをとっても、それぞれに、無限の深みをもっている。そのことが日々実感される。結局は、どんな趣味にしても、深みにはまれば金はかかる。金がかからないからいい、のではなくて、金を使っても惜しくない趣味、それが結局はいいのだ。金は使うためにあるのだから。もっともぼくが使える金なんてたかがしれているが。


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