10 「勝つこと」への執着、あるいは幸福について 

2013.1.26


 何事でも、勝ち負けを第一に考えるということが大嫌いなので、昔から勝負事には縁がなかった。スポーツも、ちょこちょこと手は出してみたものの、ひとつもモノにならなかったし、囲碁も十年近くやっていたのに、初段にすらなれなかった。運動神経がないとか、頭が悪いとかいうよりも、「勝ちたい」という執念がそもそもなかったことが原因だと思っている。

 だから、大阪の桜宮高校における「体罰問題」に関しても、第一の感想は、なんでそこまでしてたかがバスケットボールに勝つことに執着するのか理解に苦しむ、ということになる。顧問の教師だけにとどまらず、学校組織、生徒、生徒の親、すべてである。

 顧問の教師だけが、勝つことに執着していたわけではない。学校も、勝って有名になることに執着していただろうし、生徒たちも「勝ちたい」一心で、「暴力」に耐えていたのかもしれないし、親たちも、我が子の勝つ姿に執着していたからこそ、いろいろ噂はあっただろうに、あえてその学校を選んだのかもしれない。勝つためなら、強くなるためなら、殴られることも必要だと思っていた親もいるかもしれない。

 そうした中で、顧問の暴力に耐えることができずに、一人の生徒が命を絶った。ほんとうに痛ましいことだ。

 そのことで、状況が一変した。顧問の教師と学校、それにそれを容認してきた教育委員会だけが悪いということになった。顧問の教師は悪魔のように糾弾され、市長は学校の教師を総取っ替えしろと要求した。体育科の募集も中止しろと迫った。この事件は、目立ちたい一心の政治家の格好の餌食となったわけだ。

 しかし、根本は何も変わっていない。「勝つ」ことが何よりも大事なのだということは、まるで「公理」であるがごとく、まったく疑われることもなく、連日あらゆるマスコミで連呼され続けている。

 つい先日もラジオで、高校野球のある監督の言っていたことが紹介されていたが、それによると、自分は一切体罰は行っていない。しかし、生徒が土壇場で力を発揮することができるようにするためには、言葉の指導だけでは無理だ。体罰は絶対にしないが、そのかわり、練習でとことん限界まで追い詰めるのだ、というのだ。

 その言葉を紹介した人は、その監督の言っていることに同感したような口ぶりだったが、ぼくは何じゃそりゃ、って思った。練習で限界まで追い詰めるっていうが、それとほっぺたをぶん殴る「体罰」とどこが違うのか。絶対に反抗できない相手から、肉体の酷使を要求されるということは、自分で自分を殴れと言われているようなもので、「体罰」と根本的には何ら変わることはない。

 ことほど左様であるから、今は「体罰反対」などと大騒ぎしていても、そのうちみんな忘れて、「勝った。勝った。」の熱狂に戻って行くに違いない。オリンピック招致が万一成功したとしても、結局、日本が金メダルをいくつとるかということだけが、連日話題となり、金メダルとれば、国民栄誉賞だってもらうことができるんだということ示すことで、「子供たちに夢を与える」ことができると信じられ続けることだろう。そうであれば、結局「体罰」は、さまざまな形をとって存在し続けるだろう。

 「子どもたちの夢」は、決してオリンピックがかなえるのではない。「金メダルを取りたい」と目を輝かせる子どもを量産することが大人の役目ではない。そういう子どもがいたってちっともかまわないけれど、「競争」が入り込む余地のないところにこそほんとうの幸福があるのだということを教えるのが大人の役目である。それには、大人自身が、その幸福を知っていなければならないが。


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