8 紙の手帳へ 

2013.1.8


 デジタル機器をひたすら追いかけてきたが、ただひとつ手を出さなかったものがある。電子手帳である。

 システム手帳はいろいろと「リフィル」(懐かしい……)を買い込んだりしてずいぶん使ったが、結局、それほどシステムを組んで管理しなければならない仕事というものがなかったので、自然と使わなくなり、その後10年以上にわたって紙の手帳(高橋の手帳)を使ってきた。その間、電子手帳を何度か使おうと思ったが、システム手帳でも「身の丈に余る」ものだったわけだから、それ以上のものの必要性は皆無と思われたし、たかが手帳だけのためにあの重さと厚みと値段は、いくらデジタル機器好きのぼくでも、どうにも手を出す気にならなかったというわけだ。

 それが、iPadの出現で、ガラリと変わった。iPadは手帳代わりにするために買ったわけではないが、「カレンダー」というアプリが標準装備されていて、それを使ってみようと思うのは当然のことだった。しかも、この「カレンダー」は、iPhoneとも自宅のMacとも同期する。つまり、どの機器から入力しても、すべての機器にそれが反映するのだ。たとえば、出先でiPhoneの「カレンダー」に予定を入力すると、あら不思議、iPadにも、Macにもその予定が入っている。なんて便利なんだろうと思った。

 それで、iPadを初めて買ったときから、紙の手帳はやめて、この「カレンダー」に移行したのだ。それから1年半が過ぎた。

 去年の年末、知人からのメールの中に次のようなことが書かれていた。

新しいScan Snapを手に入れたそうで、山本先生の新しもの好きは相変わらずですね。紙のメディアを見直しているとのこと、私自身も、2011年4月からずっと続けていたiPadを手帳代わりに使うのをやめ、今月から1年9ヶ月ぶりに、紙のシステム手帳を復活させました。デジタルは検索にはいいのですが、総合的に見て、やはり非能率的でした。ただし、スケジュール管理だけは、デジタルでやっています。

 このメールは、ぼくのメールの中の

この前も2台目のScan Snapがまだ使えるのに新製品が出たので買ってしまいました。スピードや読み取り精度などが格段に上がったのですが、もう、あまり「自炊」の対象となる本がありません。あるにはあるのですが、やはり紙の本もきちんと残しておきたいと思うようになり、以前のように闇雲に自炊というわけでもなくなりました。

 という部分を受けてのものである。いずれにしても、このメールで、スイッチが入った。つまり、このメールを読んだ日に、紙の手帳を買いに走ったのである。まったく何という軽薄な人間であろう。

 久しぶりに紙の手帳を手にして、いろいろと予定やら出来事の記録やらを書き込んでいると、デジタルの「カレンダー」のよさと同時に、使いにくさも実感された。よさは、やはり他の機器との同期である。Macに入力すると、iPadやiPhoneにも反映されるというのは素晴らしい。使いにくさは何か。ひとつは、やはり入力が面倒ということ。もうひとつは、ぱっと見でのわかりにくさ、言い換えれば「一覧性に欠ける」ということだ。

 しかしそれよりも何よりも、「電源が要らない」ということが、いちばん便利だ、ということを実感した。もうすぐバッテリーがなくなるなんてことを心配しなくてもいいってことは素晴らしいことだ。

 こんなことを書くと、そら見ろ、だからいわんこっちゃないといろいろなところから言われそうで悔しいが、電源も入れずにただ1冊の手帳を開くだけで、メモをすぐに見ることができて、そこらにある鉛筆かなんかで簡単に書き込めて、大事な予定にマーカーで色をつけることもできる。1月10日から20日までというような展覧会の日程なども、一本線を引くだけで示すことができる。そんなこと当たり前じゃんと言われればそれまでなのだが、デジタル機器というのは、こうしたことを何とかして同じように出来るように工夫されてきたものであり、それがやはりまだまだ成熟していないということなのだ。

 つまり件の知人の言葉を借りれば、少なくとも手帳に関しては「デジタルは検索にはいいが、総合的に見て非能率的」ということになる。知人はそれでも「スケジュール管理だけは、デジタルでやっています。」と言っているが、ぼくには「管理」したり「検索」したりするほどのスケジュールがないので、これも紙の手帳で十分に間に合ってしまう。

 そんなことを思っていた矢先、1月6日に、書道の先生から「今日のお稽古は、ご欠席でしたが、予定の変更の連絡漏れではなかったでしょうか。」というメールが入り、あわててiPadの「カレンダー」を見たら、予定変更が入力されていなかった。iPadだろうと、紙の手帳だろうと、記入すること自体を忘れていたのでは何にもならない。

 いちばんいいのは、「一度聞いたことは忘れない」という頭脳を持つことである。まあ、それができないから、あれを使ったりこれを使ったりして苦労するわけだが、何を使えばいちばんいいか、いちばん能率的かなんていうことを考えているうちに、肝心の人生そのものが終わってしまうような気もして、何だか笑える。


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