7 「TOKYO書 2013」 

2013.1.5


 この4日から「TOKYO書 2013──公募団体の今」という展覧会が、東京都美術館で始まった。これは、今まで関東に拠点を置く書の公募団体の中から選ばれた18の団体の合同展で、今回がその第1回である。選ばれた団体は、「創玄書道会」「独立書人団」「謙慎書道会」などなどであるが、ぼくが参加している「現日会」もそのひとつ。これらの団体から代表者として2〜4人が選ばれて数点ずつ展示されるのだが、ぼくの師匠の越智麗川先生が、木原光威先生とともに「現日会」の代表として選ばれた。これは何をおいても出かけねばならないというわけで、今日出かけた。

 この正月は暮れからの寒さが続き、今日も、最高気温が5度とか言われていたので、ダウンのコートのしたに、ベストとセーターを重ね着し、毛糸の帽子をかぶり、マスクをしてという大げさな出で立ちで、上野へ向かったわけである。

 ぼくがまだ書道にまったく関心がなかったころは、母の作品が賞をとったりすると、それこそ「お義理で嫌々」出かけはしても、何が面白いのか全然わからず、ざっと見て、そうそうに会場を後にして、母にただ「見てきたよ」という報告するだけだった。それが、自分で書道を始めてしばらくすると、書展は「見れども飽かぬ」ものとなった。人間、ほんとうにどう変わっていくかしれたものではない。

 今回も、会場に1時間ほどいて、それぞれの作品に見ほれ、感嘆し、刺激を受けという、幸福な時間を過ごした。

 越智麗川先生は、「燃」の1字書の大作と、「いろは歌」の2作品。ここに勝手に紹介するわけにはいかないが、どちらも感動的な作品だった。「いろは歌」を見ながら、先生が「仮名を漢字風に書くということに挑戦しているんですけどねえ。」とつぶやいていたのを思い出し、そういう目で見れば、困難な課題に立ち向かう気迫と、苦労の跡がしのばれ、心が引き締まる思いだった。「燃」はもう、渾身の力をもって紙の奥の奥の深みへと精神を届かせようとでもいうような鬼気迫る迫力で目を奪い魂をふるわせる。大きな筆を、力まかせに勢いよく振り回して書く書はよくあるが、勢いが紙の表面を滑るだけという作品も多い中、先生の仕事は果てしない深みをいつも追いかけている。

 現日会の木原先生は、ぼくは面識がないが、いつも宮澤賢治の言葉を書かれるので、親しみを覚える。今回は、杉(たぶん)の板6枚に直に「雨ニモ負ケズ」を書いた作品が意表を突かれて面白かった。そうか、こういうのもアリだなあと嬉しくなった。「修羅のなみだ」と題した大作の前では、若い男女が、「これ何だろう。」「絵かしらねえ。う〜ん。」「あれ、ひょっとして『修羅のなみだ』って書いてあるんじゃないの?」「あ、ほんとだ。あそこが修羅だわ。」「な・み・だ、って、もろ平仮名のまんまで書いてあるじゃん。」なんてしゃべっていた。

 書は読めなきゃダメなのか、読めなくてもいいのか、という問題は、古くからあるらしいが、「読める」と「読めない」の境目あたりで成立している書は、こうした絵解きのような面白さもあるわけだ。

 他の会の作品もそれぞれ面白かったが、特に、書道芸術院の千葉蒼玄氏の「3.11 鎮魂と復活」と題された横9メートル、縦3.9メートルの大作は、遠くから見ると東北の海岸を思わせる形なのだが、近づくとすべてが文字で埋め尽くされ、その文字はすべて震災の被害や復興へ向けての活動などの記録の言葉という気の遠くなるような作品だった。1文字の大きさは、ほとんどが1センチ四方前後なのだから、いったい何文字あるのか見当がつかない。ぼくが去年書いた「青森挽歌」は全紙1枚におよそ4000字を書いたのだが、それに5時間は費やしたが、それでは、この千葉氏の作品がどれだけの時間を費やしたかのだろうか。すごいことだなあとうなった。これはもう、新しい形の「写経」である。

 写真もいっぱい撮って、次の会場である上野松坂屋に行った。ここでは、「現代書道二十人展」をやっているのだ。現代を代表する書家の作品展で、56回目を数える伝統的な書展だ。しかし、こっちは、しかもリニューアルされた都美術館に比べると、古いデパートの催事場のこととて、天井は低いし、通路は狭いし、そのうえ押すな押すなの大混雑だったので、ゆっくり見ることができなかった。腰も痛くなってきたので、20分ほどで退散。ただ、生意気いうようだが、こちらの方は、功なり名遂げた大家がずらりと20人並んでいるわけで、素晴らしいには違いないのだが、あんまり面白くなかった。「TOKYO書 2013」に集まった作家たちの熱気と、現代という時代に書家としてどう向き合うのかという真摯な問いかけがなかったように思うのだ、なんて、やっぱり生意気だなあ。

 さて、今年はどうしようか。書の深みなんてぼくにはまだまだの境地。ただ、ひたすら筆と墨との格闘となるだろう。どこまで行けるか、やるしかない。


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