4 泣いてしまうのは何故? 

2012.12.15


 近くの京急デパートに隣接するビルの中に、横浜市港南区の地区センター「ひまわりの郷」がある。ここのホールで、隔月で「ひまわり寄席」というのがあり、すでに60回を超える歴史を持つが、ここ数年、よく出かけるようになった。

 前回は第62回。ここで出色だったのが、三遊亭遊雀の「初天神」だった。この噺は、実にたわいもない噺で、初天神(旧暦正月25日の、その年初めての天満宮の縁日のこと。)に父親に連れて行ってもらった子どもが、「今日は何か買って。」と言わないと約束したのだが、結局「お団子を買って、買って。」と泣いてせがむことになるというだけの噺である。

 寄席などでは、10分もあればできてしまう噺だが、これを遊雀は、30分以上もかけて(いたと思う)たっぷりやった。遊雀の面白さは、実際に見て、聞いてみないとどうにも説明のしようがないが(落語というのは、結局みんなそうだが)、とにかく、駄々をこねる子どもの描写がリアルを極めていて、「買って、買って。」から「どうして買ってくれないの?」へとなる間に、泣き始め、挙げ句、「いい子はもうここまでです。」と開き直って、「誰かぼくに団子を買ってください。」と周囲に向かって絶叫するまで、もう、あまりのおかしさに、椅子から転げ落ちそうだった。他の客も大受けだったので、遊雀は、ますますヒートアップした感もあった。こうなるともう落語の域を超えているようにも思えたが、とにかく、おかしかった。

 そんなにもおかしかったのは、ぼくのご幼少のみぎりに、その子どもにそっくりだったからでもあった。そういえば、オレも子どものころ、オヤジに何か買ってと言うときは、決まって途中で泣き出してしまったなあと、笑い転げながらもしみじみ思ったのだった。オヤジは「なんでそうやって、おまえはピーピー泣くんだ。」と、さもうんざりしたような顔をしたものだ。それでも、涙はとまらず、しゃくりあげながら、どうしてそれが欲しいのかをエンエンと訴え続け、何ヶ月かの後には必ずゲットしたのだった。手に入れるまで、ぼくの泣きながらの訴えはやむことがなかったからだ。

 その時代のことを思い返すと、どうして「買って」という時に泣いてしまったのかが、我ながら今までよく分からなかったのだが、今回、遊雀の「初天神」を聞いていて、そうか、子どもというものは、そういうものなんだなと深く納得したのだった。泣いてしまう理由を、これこれこういうことで、子どもは泣いてしまうのですと、きちんと説明することはできない。でも泣いてしまう子どもの心理というか生理というか、そうしたものは、あのようにリアルに演じらることで、「そういうものなのか」と納得がいく、ということもあるのだ。これは考えてみれば、スゴイことだ。

 「欲しいとなったら、どうにもならない。」というのは、子どもにだけあることではない。子どもっぽい大人にもある。もちろん、ぼくもその一人だ。

 iPadは「初代」と「3代目」の2台も持っているのに、iPad miniを店頭で手に持った瞬間、「ああ。ダメだ。」と思った。どうにもならなかった。

 カメラはもうあんまり使わないから、買うのをやめようと思っていたのに、PENTAX Q10を見た瞬間に、「ああ。やばい。」と思った。これもどうにもならなかった。

 泣かなかっただけ、マシだが、心の中で泣き叫ぶ「子ども」に、結局負けたということである。「初天神」を笑ってばかりもいられない。

 

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