3 予習 

2012.12.9


 ちょっとした事情があって、11月の下旬、グリーンホール相模大野という所へクラシックのコンサートを聞きに行った。クラシックのコンサートは、昔は結構出かけたが、もう10年以上もご無沙汰している。それが急に聞きたくなったというわけではなく、ちょっとした事情のために出かけたのだ。

 このちょっとした事情というのは、ここに詳しくは書けないが、さる知人のお子さんで、生のオーケストラの演奏を聞いたことがないので一緒に行ってほしいと、まあそういうようなことで、それなら初心者にも適当で、値段も安くて、昼間の公演で、ということで探したら、このコンサートがあったということだ。

 出演は、金聖響指揮、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、ピアノは、ゲルハルト・オピッツ。曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。

 「皇帝」はCDで飽きるほど聞いたし、リヒャルト・シュトラウスはほとんどまともに聞いたことがないし、第一、オーケストラが、神奈川フィルだし、指揮者はどこかで聞いたことがあるような気がするけどあまり有名じゃなさそうだし、期待できないと勝手に決めつけてた。まあ、それほどクラシックの世界から遠ざかっていたということである。

 ホールに近づくと、「がんばれ、神奈川フィル」というようなのぼりをたてて署名活動をしている姿が目に入った。楽団員の不当解雇の撤回を求めるのぼりも目についた。後で知ったことだが、この神奈川フィルは、経営難のために解散の危機にあるのだという。観客動員もうまくいかないということは、レベルも低いということなのかなあ、などと考えながら、ホールに入り、演奏の始まるのを待った。観客は予想を遙かにこえて、1800人ほど収容のホールは8割以上埋まっていた。会場全体に熱気のようなものがこもっている。解散の危機ということで、観客も何とかせねばという気持ちなのかもしれない。

 演奏が始まった。「皇帝」である。ああ、そうか。これを久しく忘れていたなと思った。ピアノはともかく、バイオリンの音が、やわらかく響き、湖面のさざ波のように伝わってくる。この音、これを忘れていた。

 次は、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」の冒頭はよく耳にするが、それすら全曲通して聞いたことがない。「英雄の生涯」なんて初めてだ。昔、クラシックのコンサートに行くときは、初めて聞くと面白くないから、レコードを買って「予習」をしたものだ。そうしないと、何が何だか分からないうちに終わってしまい、ちっとも楽しめなかったのだ。ところが、今回は、予習なしだ。

 オーケストラは、「皇帝」の時より、ぐっと人数が増えた。「皇帝」は小編成で演奏していたのだ。解散の危機にあるオーケストラにこんな楽団員がいたのかと思われるほどの人数で、ほんとうに舞台からはみ出しそうな勢いだった。

 演奏が始まった。驚いた。いいのである。先ほど「皇帝」の演奏の時に感じていた「これを忘れていたんだ。」という思いは、ますますつのっていった。

 絵画は印刷で見ることができる。音楽は録音で聞くことができる。しかし、料理は、食べてみないと、嗅いでみないと分からない。いくらおいしそうなグルメ番組を見ても、料理を食べたことにはならない。これは確かなことだ。けれども美術全集とかCDとかで、ぼくらは絵画を見たり音楽を聞いたりした気になっている。これは、グルメ番組を見て料理を食べた気になっているのと同じとは言わないまでも、どこか似ている行為なのではないか。そんなことも考えた。

 そして、何よりもぼくが痛切に感じたのは、音楽は、何よりも人間が作り出す音で成り立っているのだという当たり前の事実だった。それをぼくはどこかで忘れていたのではなかったか。

 そんなことを、あれやこれやと考えているうちにも、音楽は豊かに響き、その響きは、時に激しく時に繊細に僕の耳に届き、初めて聞く曲なのに、すみからすみまで心に染みてきた。こんなことを今更いうのも恥ずかしいことだが、ぼくは、はじめて音楽をほんとうに聞くことができた。そんな気がしたのだ。

 そうか! とその時また電光のようにある考えが僕の脳裏を貫いた。ぼくが、今までやって来たことは、「予習」だったのではなかったか。長い長い、60年を超える「予習」だったのではなかったか、と。

 

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