99 いつかああなりたい 

2012.11.10


 小さんの落語は、なんかつまんないような気がして、DVDの全集が出ても買うのがためらわれたのだが、そういえばあんまり最近小さんを聞いてないなあと思い返して買ってみた。10枚組で39900円(アマゾンで32420円)。高いといえば高い。安いといえば安い。

 その付録の冊子に、小三治の談話が載っていた。題して「いつかああなりたい」。素晴らしい談話で、全部ここに引用したいくらいだが、冒頭こんなことを言っている。

 小さんの芸に惚れて入門したわけではなかった、最初は。
 そばにいるとこの人に吸い込まれそうで、持っている空気感や人間性に惹かれたというのかな。つまり、あれが惚れたってことなんでしょうかね。男も女もそうでしょうけど、何かの理由があって「この人好きだ」というのはほんとの好きじゃない。

 小三治も噺家になりたてのころは、名人上手になりたくて圓生に憧れ、稽古に通っていたという。そこで圓生から、「火事息子」という落語で、蔵から出た折れ釘につかまってぶら下がる場面について、「折れ釘につかまっているその形をとることによって、とても形がきれいに見える。美しく見える。」と教わり、そのことを師匠の小さんに言うと

 「そんなものはどうだっていいんだ」って言ってましたよ。「その了見になりゃ、形なんてどうでもいいんだよ、その気になってみろよ」と。小さんは、噺は「お話」なんだから、リアルに表さなくてもいい、噺の中で何を言おうとしているのか、その心だ、了見が大切なんだ。その人になりきってそのことばのやりとりができれば、空気感や背景もおのずと見えてくるはずだっていうんです。え──! それでいいのかよって思いましたよ、最初は。
  これこそ話芸じゃないかと思えてくるのは、ずっとあとになってからです。だんだんうちの師匠の噺を聴いているうちに、落語、噺の基本はおとぎ話じゃないかって思うようになったんです。それが噺ってもんじゃないかって。

 う〜ん、そうだなあ。共感ばかりで、付け加えることばもない。引用を続ける。

 三代目や四代目小さんを聴けるのはその頃のレコードだから、実際はそうやっていたかどうかわからないけど、噺を聴いてると最初はおもしろくもなんともないんですよね。リアルさに欠けるっていうんでしょうか。ただの棒読みに近い。だけど、聴いてるうちにその世界が見えてくるんですよ。それはなぜだろうかと思っていたら、話し方で人を惹きつけるんじゃなくて、結局腹の中にその世界を持ってるかどうかってことに気づいた。
 たとえば「長屋の花見」にしても、つらつら言い並べていくだけなんですよ。メリハリつけたり、間をとったり一切していない。でもそれを聴いてるうちに、長屋の達中がわいわい集まってきて、なんだかんだ言いながらそれじゃあ行こうってぞろぞろ出かけていって、大家さんとやりとりする様子がすごく見えてくるんですよ。
 同じ見えてくるんだったら、余計なことしねえほうがいいじゃないか。そのほうが芸として上じゃないかって思えてくるんですね。
 私はね、最晩年の小さんにそれを感じた。
 全盛期じゃなくて、いっぺん倒れて、もう小さんはダメだって言われるようになってからです。どうかすると間違えて別の噺になったりするのを見て、メリハリがあって威勢がよく活力みなぎっていた小さんはどこへ行ってしまったんだってことを、世間の人が言うようになってからの小さん。(声をひそめて)素晴らしかった。
 小さんの場合もその世界が見えてきたってことですね。こう見せてやろうという余計なものがなくて、ただたんたんと押し寄せていくように噺をする、ただ並べていくように噺をする。実は小さんという人は、本心ではああいう噺をしたかったんじゃないかな。自分が四代目の小さんのお弟子さんでしょ。憧れていたのではないでしょうかね。

 これを聴いて、まさに目からウロコが落ちた思いがした。小さんの、あの、地味な、抑揚のない語り口こそが、落語という話芸のひとつの極致なのだということだ。そうしてもうひとつの極致に枝雀の奔放な芸がある。

 この前の木曜日、国立演芸場での、文菊・志ん陽の真打昇進披露公演に行った。文菊の昇進も祝いたい気持ちもあったが、何よりも小三治が出ると聞いて出かけたのだ。小三治は「二人旅」をやった。小三治は、どうも体調がよくなかったようで、元気がなかったのかもしれないが、この「二人旅」での二人の旅人ののんびりしたやりとりが、まあ、なんとも絶妙だった。それこそ、ほとんどつぶやくような、「ただ並べていくような噺」のしかた。そこに、のんびりとした春の情景から、まさに「空気感」までが、見事に表現されていた。

 小三治の談話を読まないで、この日の「二人旅」を聴いたら、たぶん、「小三治も疲れているのかなあ」で終わってしまったかもしれない。しかし、この談話を背景に聴いて、小三治は、師匠小さんに憧れ「いつかああなりたい」という時期をもうすでに超えてしまっているのではないかと思われたのだった。

 小三治(声をひそめて)素晴らしかった。


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