100 何のために? 

2012.11.17


 何やかんや言ってるうちに最終回。このエッセイで800編ということになる。

 第1期の「100のエッセイ」を書き始めたころは、まだ48歳。50歳にすらなっていなかった。それが今は63歳。歳なんて、あっという間にとってしまうものである。

 それに、最初は「第1期」などということもなくて、100編書いたら終わりと思っていたし、そもそも100編も書けるとは思ってもいなかった。その100編を書き終えたとき、なんだ、結構書けるじゃないかと思い、それならもう少し続けてみようと思って、「第2期」を始めた。それでも、そうそう長続きするものでもないと思ったから、「第1期」と「第2期」は、自分で版下を作って自費出版した。けれども、「第3期」が終わって、その自費出版をするための版下を作成し終わったとき、こんなことしていると、2年に一回は自費出版しなければならなくなるぞ、とそら恐ろしくなり、「第3期」の出版はやめた。何しろ、自費出版ともなれば、1回に3〜40万円はかかるのだ。もちろん、版下を自分で作成した場合の値段である。

 まあ、そんなわけで、だらだらと続けているうちに、800回となったというわけである。年寄りの誕生日と同じで、めでたくもあり、めでたくもなしといったところだろうか。

 それにしても、いったい何のために、こんなエッセイを書き続けているのだろうか、と自らに問いたくもなるが、それも考えてみれば野暮な話である。「何のために?」と聞かれて、「これこれのためです。」なんて簡単に答えられるようなことは、所詮たいしたことじゃない。「君はいったい何のために生きているの?」と聞かれてスラスラ答えるヤツがいたら、むしろ警戒したほうがいい。「国民のみなさんのために」と連呼する政治家どもをみれば、そんなことはすぐわかる。

 たとえば噺家に、「なんであなたは落語家なんてやってるんですか?」と聞いたとして(絶対にぼくは聞かないが)、その噺家が「それはお客様に笑って頂いて、少しでも幸せになっていただくためにです。」なんて真面目に答えたりしたら、まず間違いなくその噺家はインチキ噺家であるに決まってる。

 まともな噺家なら、「そうですねえ。自分でもわけがわかんないですねえ。まあこんなことしか能が無いもので。」と照れて言うか、「飯の種ですよ、飯の。」とかっこつけて言うか、「そんなこと聞くだけ野暮ですよ。」というか、まあそんなところだろう。

 そういうわけで、ぼくのエッセイなんて、落語なんかに比べることもおこがましいツマラヌものだが、万一「なぜ?」と聞かれても、「まあ、自己満足です。」ぐらいのことしか言えない。

 もともと文章を書く練習として始めたこのエッセイだが、今ではその目的も、どうでもいいものとなってしまった。文章などうまくなったところで、今更どうにもならないからだ。いや、文章というものは、うまいとか下手とかいうものではないということが、何となく分かってきたからだと言い換えるべきだろうか。

 「達意」という言葉がある。「自分の考えを人にわかるように十分に述べること。」の意だ。文章を書くときの目標としてよく言われるが、ぼくなどの場合は、「達意」はあまり問題にならない。「自分の考え」が自分でよく分からないからである。自分の考えがしっかりしていて、何とかしてそれを誰かに伝えようと思って書いているのではないのだ。むしろ、自分の考えが分からないので、それを探るために書いているといったほうがいい。

 いいかげん、いい歳なのだから、自分の考えぐらいしっかりあるでしょう、と言われそうだが、歳を取ればとるほど、分からなくなるというのが偽らざる現状である。これからは、もっともっと分からなくなっていくのだろうと思う。そして最後は、もう自分が書いているのだか、パソコンが書いているのだか、そもそも自分の意識がどこにあるのだかも分からなくなっていき、あとで自分の文章を読み返しても、これ誰が書いたの? ってぐらいの境地に達するのかもしれない。それこそが理想といえば理想だが、まあ、意識ある限り、続けていくことだけは、どうも確かなようである。


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