98 一緒に泣いてあげればいい

2011.4.24


 雨の音がひどかったせいか、夜中にふっと目覚めた。4時だった。たいていはすぐにまた眠ってしまうのだが、ちょっとラジオをつけてみたら、NHKのラジオ深夜便をやっていた。まあ、これを聞くようになったら正真正銘の「お年寄り」なのだろうが、ときどき「めっけもの」がある。

 おじいさんの声で、何やら話をしている。音声の状態で、講演の収録であることがわかる。

 まあそういうときは、どうしても心配ですから、行かないようにと止めてしまうわけです。その日は、雨の降る中をバイクで出掛けるというので止めたそうですが、言うことを聞かないで出掛けてしまったそうです。けれども、娘さんは、しばらくすると、途中まで行ったけれど、あまり雨がひどいので帰ってきたといいます。親に心配をかけまいということで、娘さんはそこで親孝行をしたということになりますけれども、しかし、親はどんなに心配でも、子どもがやるということを止めてはいけないのだと思います。たとえ、娘さんが雨の中で事故を起こして大けがをしたとしても、その時は、一緒に泣いてあげればいいんです。それが「他力」の考え方なんです。

 途中から聞いたので、正確ではないが、だいたいこんな話だった。話していたのは、ひろさちやさん。他力信仰についての講演だった。

 「たとえ事故でけがをしても、その時は一緒に泣いてやればいいのだ。」という言葉にはっと胸を突かれた。それはできそうでできないなあと思った。ぼくならば、やはり子どもが怪我をしたら、「だから行くなと言っただろ。」と子どもをなじってしまいそうだ。

 以前、息子がアメリカに留学し、免許をとったばかりでろくに車に乗ったこともないのに、中古車を買うと聞いたときなどは、のど元まで「やめろ」ということばがこみあげた。いきなり右側通行でどうするんだ。右折と左折が逆になるんだぞ。絶対やめろ。そう言いたかった。けれども、言えなかった。その点は、自分を褒めてやってもいいが、しかし、「怪我をしたら一緒に泣いてやればいい。」とまで覚悟をしていたわけではない。そこまで覚悟ができていたら、もっと気が楽だったに違いない。

 気が楽、というより、「心配だからやめろ」というのは、結局、自分のエゴだという点が肝心なことなのかもしれない。心配なのは、あくまで自分である。自分が心配だというのは、相手のことを思いやっているように見えるが、実は自分が嫌な気分になるということでもある。どちらが「ほんとう」なのかは実はよく分からない。

 ぼくは祖母に育てられたというか、干渉されつづけて育ったのだが、ぼくが一つ咳をすると、祖母は露骨に嫌な顔をして、医者に行ってこいと言った。ぼくは、子どもながらに、祖母がぼくのことを心配しているというより、自分が風邪をうつされるのを嫌がっているのではないかと感じていたものだ。そういうことに子どもは特に敏感である。

 家族であれ、友人であれ、生徒であれ、他者が何かをしたいと言ったとき、それによって生じる自分の感情──心配とか不安とか──によって、その行動を規制してはならない。それは他者に対する愛情ではない。ほんとうの愛情というのは、何かあったらそれを自分のこととして受け入れ、「一緒に泣いてあげる」ことなのだ。それが、法然や親鸞の教えらしい。そして実は、この「一緒に泣いてくれる」のが、仏なのだということらしい。

 これは決して仏教だけの教えではない。キリスト教にも、同じような教えがある。宗教というものは、突き詰めれば、結局同じところに行き着くものである。

 

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