94 今日は結婚記念日なのだ

2011.4.1


 長いトンネルのような、悪い夢を見ているような、前代未聞の3月も終わり、4月である。

 震災に関しては、何ひとつ片付いているわけではないが、とりあえずの区切りというのは、階段で言えば踊り場のようなもので、ちょっと一息つける「所」であり、「時」であるのかもしれない。

 4月1日と言えば、何を隠そう、われわれ夫婦の結婚記念日である。何もわざわざエイプリルフールに結婚式などしなくてもと言われそうだが、ただ春休み中の日曜日で大安といったらその日だったというまでで、他意はない。第一、結婚式当日は、今日はエイプリルフールだなどと一度も思わなかった。昭和48年4月1日。遙かかなたである。

 結婚まで6年もつき合っていたので、結婚式をようやく迎えることができたときは、もうマラソンのゴールみたいなもので、精根尽き果てた感じだった。新婚旅行の計画を二人で楽しく考えるなどという余裕もなく、仲人をしてくださった小学校時代の先生に計画を任せる始末で、その結果、若い身空で、温泉巡りの旅行になってしまった。

 初日が熱海の伊豆山、次が四日市の湯ノ山温泉、次が紀州の湯の峰温泉に2泊、最後が南紀の勝浦温泉という、まあ何とも年寄りくさい旅行となったが、高所恐怖症の父がどうしても飛行機を使うことをいやがったので(自分が行くわけでもないのに)、そういうこととなったわけだ。ちなみに、その頃は、ぼくも飛行機に乗ることが嫌だったわけではなく、最初の計画としてはグアムあたりにしようかなどと家内と話していたのだ。それが父の反対でぽしゃったものだから、やる気をなくして仲人さんに任せるということになったのかもしれない。いずれにしても、その時、飛行機に乗らなかったために、未だに飛行機に乗れないということになってしまった。

 結婚式も、野毛山にある「迎賓館」という所でやったのだが、最初の計画では、ちゃんと洋間でやる予定でいて、家内もお色直し用のドレスをわざわざ作ったのに、途中から、我が家の方の親族が田舎から我も我もと参加することとなり、予約していた洋間では入りきれなくなってしまい、その結果、何と和室の大広間に会場が変更となってしまった。それで、家内はせっかく用意したドレスも着ることができなくなり、家内の友人も着物姿で正座を強いられるとはめとなった。

 おきまりのケーキカットもやったが、和室ではどうもかっこがつかず、おまけにすっかり舞い上がっていたぼくらは、三段のケーキをカットするのに、上の一段目から下の三段目まで、まるで袈裟懸けのようにカットしたことに後で写真を見て気づいたほど。

 そのうえ、和室の大広間ということが災いしたのか、披露宴は、もう田舎の宴会状態となってしまい、ここが果たして港ヨコハマの「迎賓館」なのだろうかという「おしゃれ」とはほど遠い雰囲気。酔っぱらってすっかり調子に乗ったぼくは、最後に、では歌いますなんて言って、こともあろうに都はるみの『アンコ椿は恋の花』を当時のことだからカラオケもなしに熱唱する始末。そもそも『アンコ椿は恋の花』は、威勢はいいが片思いの歌で、結婚式にふさわしいとはいえないし、第一、花婿がひとりで自己満足に浸ってどうするのか。

 まあそれでも家内の親が後に語ったところによれば、家内は終始ニコニコしていて、心底嬉しそうだったというから、後で、和室にしたことを怒っていたとはいえ、まあ式自体は楽しかったのかもしれない。そう願うばかりである。

 いずれにしても、働いてまだ1年しか経たず貯金もないのに、23歳で結婚したのだから、式の費用などはほとんど親がかりで、とにかく結婚できればいいんだから、人なんか呼ばなくてもいいんだと口を酸っぱくして親には言ったのに、親にしてみれば、大勢いる親戚を呼ばずにはできないという意地もあったことだろう、ありったけの金を使ってくれたのに違いない。新居に至っては、家内の親が持っていた貸家をタダで貸してくれた。何から何まで親がかりの極楽トンボであった。いや「あった」ではない。「ある」である。今更ながらありがたく思っている次第である。

 4月に結婚し、その夏にはもう家内は最初の子を妊娠していて、夏休みの旅行などいう楽しいこともなく、何とその夏にぼくは痔の大手術をして1週間も入院したりして、甘く楽しい新婚生活どころか、惨憺たる新婚の夏になった。教師としても2年目を迎えたばかりで、もう仕事が大変で大変で、子どもが生まれても、しみじみと可愛いなどと思って育てたという記憶もない。ほんとに家内には申し訳ないことばかりだったと今でも反省しきりである。

 しかし、まあ、過去は過去。大事なのは「今」であろう。マイスター・エックハルトはこう述べている。

 彼(神)は現在において人間が用意をととのえているのを知り給うならば、その人間が過去においてどうであったかは注目し給わない。神は実に現在の神である。今お前はどうであるか、神の見給うのはそれであり、そうしたものとしてお前を受け取り、抱擁し給う。過去においてお前がいかなるものであったかは問題ではなく、現在今いかなるものであるかが問題なのである。

(「神の慰めの書」相原信作訳・講談社学術文庫)

 何も家内に「神」を求めるわけではないが、しかし、このエックハルトの言葉は、とてもいい。人間もこの「神」のようでありたいものである。

 

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