85 小刻みな希望

2011.2


 老年をどう生きればいいのかということが、最近のぼくの大きなテーマとなっていて、いろいろと本を読んだり、先輩の話を聞いたりすることが多くなっているのだが、そこでどうも共通しているのが、「人さまのために生きること」が大事だということのようだ。森田療法においても、そこに行き着くようだし、勤務校の校訓も「他者のための人間」である。

 「晴耕雨読」とか「悠々自適」とかが、老年の生き方の理想のようにも思えるのだが、どうもそういった「自分だけ」の世界に生きるのは、よほどしっかりした老人でなくては無理のようで、前にも書いたとおり「小人閑居して不善をなす。」ということになりがちのようなのだ。だから、もっと具体的に、誰か他の人のためのお役に立つことをする方が、責任も生じるからさぼれないし、自分が必要とされていることが実感できるので、精神的にも張り合いがあるということだろう。

 吉本隆明は、仕事が生き甲斐になるということが、老いにとっても適用できるかという問に、「仕事があるからということとは関係なくて、本当はどんなつまらないことでも張り合いがあればいい。仕事は、一側面でしかない。」というように答えている。

 さらに、吉本隆明は、こんなことも言っている。

 「もういいことなんか何もねえよ」という軌道に入ったら、できるだけ早く抜け出すようにする。どんなに修行をつんで悟りを開いた人でも、そういう軌道に入ったら少なくとも希望はない。絶望しかないんですね。すぐ抜け出すしかないんです。では、抜け出すためにはどうすればいいのか。要するに、希望を小刻みに持つしかない。例えば、今日は孫と遊んで楽しかった、面白かった。そういう状態にもっていけるようにするしか防ぎようがないわけです。

 「そういう状態にもっていけるようにする」ことは、口でいうほど簡単なことではない。簡単なことではないけれど、やはりそうするしかないだろう。友人の精神科医も「小さな幸せを探して生きていきましょう。」と口癖のように言っている。

 ぼくもときどき、いや、頻繁に「もういいことなんか何もねえよモード」に入ってしまう。開き直って、それでいいじゃないかと思うこともある。けれども、小刻みに希望を持つことができれば、もう少し楽に生きられるかもしれない。

 他者のための人間であるためには、絶望しているわけにはいかない。とすればやっぱり小刻みに希望を見つけていくしかないのだ。


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