82 八百長問題

2011.2


 野球賭博問題で中継中止になった大相撲だったが、その騒動もなんとかおさまって、初場所をけっこう楽しんで見たばかりなのに、ここへきて今度は八百長問題が発覚して、事態はとんでもない方向へ行く可能性も出てきてしまった。何でも公益法人認定の取り消しもありうるとのことで、そうなると相撲協会は解散、両国国技館も手放すということになるらしく、そうなったらNHKの中継もおぼつかなくなるし、それどころか大相撲そのものが滅びかねないといった雲行きである。

 大相撲は小学校に入る前から見ていて、それから毎場所欠かさずとまではいかないが、それでもだいたいは見てきた。祖父がこたつに入って黙って大相撲中継を見ている姿などは、今でも鮮やかに思い出される。そんなにもぼくの生活の一部になっている大相撲がもしこの世から消えてなくなったらどうしようと、少々うろたえている。

 そもそも大相撲というのは時代錯誤もはなはだしい世界で、しかもどこかいかがわしいところがあって、それがぼくのような時代ものの人間には、何とも言えない魅力となっているのだ。

 テレビの中継にしても、力士よりも桟敷席に座っている芸者衆を見るのが楽しみといった側面だってある。そんなスポーツは他にはないだろう。大相撲はスポーツではなく、一種の芸能なのだといったほうがいい。それを近代スポーツの概念で理解しようとするからおかしなことになるのだ。

 八百長問題など、とうの昔から「あるだろうなあ」と誰でも思ってきたことではないか。アメリカの何とかいう団体が調査をしたら、7勝7敗の力士の千秋楽の勝率は7割を超えるという結果が出たそうだが、何もそんな調査をしなくても、そのくらいのことはふだん大相撲をよく見ている者なら百も承知のことだ。勝ち越しをしているんだから、まあ負けてやったんだろうなと納得してきたし、もし勝ち越しているのに勝ってしまったら、かえって人情のないヤツだぐらいに思ってきたものだ。

 八百長賛成というわけではさらさらないが、そういうこともあるんじゃないのっていう感じの世界なのだし、そういう世界があってもいいんじゃないかと思うのだ。

 しかし今回のように、メールの文面があからさまに公開されてしまうと、やはりしらけてしまう。いかがわしさを抱えた大相撲も、ネット社会という「明るい世界」では、生きていけないということなのだろうか。何だか味気ない世の中になってきたものである。


Home | Index | Back | Next