76 「飽きる力」

2010.12


 『飽きる力』という本を読んだ。題名の割には専門的な内容の本で、オートポイエーシスとか、認知的リハビリとかいった難しい言葉が飛び交い、決して読みやすい本ではないが、著者の河本先生の言いたいことを簡単に言ってしまえば、生きるうえでは「飽きる」ことが必要ですよということだ。それをわざわざ「飽きる力」とまで言うのは、実は「飽きる」ことが案外難しい、あるいはそれが出来ない人がいるかららしい。そして「飽きる力」はトレーニングによって身につけることができるというのである。

 「飽きっぽい」ぼくにしてみれば、トレーニングまでしなければ「飽きる」ことができない人がいるなんて驚きだが、しかしよく考えてみれば、「あんなことして、よく飽きないもんだなあ。」「よく飽きもせず同じことを言うよなあ。」と感心するような人は結構いるもので、そういう人がトレーニングを必要とする人なのかもしれないと納得はできる。

 しかしまあ「飽きっぽい」を枕詞として持つぼく自身にしてみても、こんなエッセイをもう10年以上書き続けているのだから、「飽きっぽい」なんてウソだろうと思う人も多いだろうが、このエッセイは例外中の例外で続いているだけのこと。しかし続いているとはいっても、いい加減もう飽きているのである。ただ「飽きる」ことと「続ける」ことは決して矛盾しないので、飽きていても続けていることは山ほどある。

 40年近くの長きにわたってやってきた教師という仕事にもとっくに飽きているし、家族や友人にも飽きているし、そもそもこのやっかいな性格を持った自分自身に飽きている。総じて言えば、人生に飽きているということだ。それでも、教師はまだしばらく続けるつもりだし、家族や友人を捨てて出家する気はさらさらないし、もう少し生きていたいとも思っている。

 「飽きる」ということは、河本先生によれば、自分や対象から距離をおいて、選択肢を増やすということらしい。「飽きない」ことは、人から柔軟性を奪い固定化してしまう。そこからは何も生まれないというのだ。しかも「飽きる力」は繊細な感覚を必要とするのだそうだ。

 何をしていても、声に出して「ああ飽きた」と言ってみるといいと河本氏は言っている。それが新しい選択肢に気づかせてくれるのだという。

 職員室で、ことあるごとに「ああ授業は飽きた。」と言っては同僚のヒンシュクを買っているぼくとしては、百万の味方を得た思いである。


*『飽きる力』河本英夫・NHK出版・生活人新書331・2010年10月刊


 

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