75 鉄の表紙

2010.12


 岩波新書『本は、これから』という新刊が出た。池澤夏樹編集で、池澤以下37名が、電子書籍に関連して「本の未来」についての考えを綴っている。各界の人間が電子書籍に関して今どういう発言をしているのか興味があるので、買い求め、読む前に裁断して電子書籍にして、iPadで読んでいる。

 鈴木敏夫(スタジオジブリ代表取締役プロデューサ−・1948年生まれ)という人が、こんなことを書いている。

 アップル社の情報端末iPadを手にした時、最初に思い出したのは、寺山がかつて言っていた「本の表紙が鉄でできていたらいいのに」という言葉だった。鉄は極端だとしても、彼は読書という行為において「ありがたみ」がどれだけ重要であるかを知っていたのだろう。僕も最近、こう思う。すべての本をハードカバーにしてしまったらどうかと。

 ぼくとは1歳しか違わない人だが、こんなにも意見が違うと、かえっておもしろいぐらいのものだ。

 それにしてもiPadを手にして最初に思い出したのが寺山修司の言葉だったというのは、いくらなんでも「ウソでしょう?」と言いたくなる。普通なら、「あ、意外に重い。」とか「うわあ、きれいだなあ。」とかいった即物的な反応のはずで、見た瞬間に寺山修司の言葉が浮かぶというのは、格好つけすぎではないか。

 しかしまあそんなことはどうでもいい。要するに彼の言いたいのは、iPadで読む電子書籍には「ありがたみ」がないからダメだ、ということだろう。文庫本も新書も「ありがたみ」がない。だから鉄とは言わないまでも本をハードカバーにしたら「ありがたみ」が生じて、読書ももっと有益なものとなるだろう、ということらしい。

 麗々しく着飾ったハードカバーの本の中身のあまりの薄っぺらさにこの人は驚いたことがないのだろうか。その手の本がうんざりするほどこの世にあるではないか。金さえ出せば、豪華本なんていくらでも作れる。そうして作られた本の「ありがたみ」に何の意味があるのだろうか。

 こういう考え方をする人がいるから、ぼくはどんなきれいな表紙のハードカバーの本でも片っ端から電子化したくなるのだ。

 そもそも寺山の言葉は、本の「ありがたみ」について語っているのだろうか。鉄のカバーがついた本なら、誰も読もうとしないだろう。誰にも読まれることなく、書架に眠り続ける本を寺山は夢見たのではなかったか。せめてそのくらいの解釈をしなくては寺山も浮かばれまい。


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