70 「若いツバメ」の由来

2010.11


 どういう流れでそうなったのか知らないが、どうして「若いツバメ」っていうのかなあということが国語科研究室で話題になった。『広辞苑』では「年上の女の愛人である若い男。」とあるだけ。『日本国語大辞典』になると、妙に生々しくて「年上の女にかわいがられて情交を続ける若い男。」とあり、例文として次の例が載っていた。

*つゆのあとさき〔1931〕〈永井荷風〉八「おい。村岡。君はどうして彼女のツバメにならなかったんだ」

『日本国語大辞典』では、もっとも用例の古いものから載っているということなので、1931年が用例として見つかった最も古い例ということになる。しかしこれでもどうして「ツバメ」なのかは依然として不明である。

 こういう時はネットだねということで、我が愛用のiPadで調べると、「語源由来辞典」というサイトがあって、そこには、平塚雷鳥の恋人だった年下の青年画家奥村博史が、仲間を騒がせたということで身を引くときに書いた手紙に、「若い燕は池の平和のために飛び去っていく」と書いたことから流行語となったのだというような説明があった。

 しかしこれでも納得がいかない。どうしてそういうことが分かったのか、出典の記載がないからだ。

 他のブログなどでも、もっぱらこれを引用したらしく、出典の記載がない。ネットの情報は便利だが、往々にして不完全なものだ。どこから分かったのかなあと気になったが、まあ、それでもみんな「へえ〜、平塚雷鳥とはねえ。びっくりしたなあ、もう。」ということで終わったのだった。

 ところがちょうどその日、家に帰ってみると、古本屋に注文していた『現代教養全集11・日本の女性』が届いていた。この本は、先日読んでいた唐木順三のエッセイ集の中に、増田小夜の『芸者』という文章に感動したと書いてあって、それがこの本に載っているというので注文してあったのだが、それを開いてみると、何と平塚雷鳥の『わたくしの歩いた道』が載っているではないか。ああこれかと直感した。

 読んでみると、ちゃんと詳しく書いてある。しかもこの手紙は奥村本人が書いたのではなく、その友だちの詩人が書いたのだ。だからこの流行語の真の作者はこの新妻という人の若き日の創作であると書いてあった。(

 ふとしたことから感じた疑問が、ある程度まで分かったその日に、その原典が偶然に我が家に届くなどということは滅多にあるものではない。これにはもっとびっくりした。


*参考までに、この部分を詳しく引用しておきます。

 友達には説教されるし、紅吉には脅かされるし、うるささに堪えられなくなったのでしょうか、奥村は一通の手紙に託して、私の前から姿を消してしまいました。
 奥村から送ってきた手紙は、散文詩のようなきれいな文章で、「池のなかで二羽の水鳥たちが仲良く遊んでいたところへ、一羽の燕が飛んできて池の水を濁し、騒ぎが起った。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く。」とまあだいたいそんなことが書いてありました。私は、取りあえず「燕ならばきっとまた、季節がくれば飛んでくることでしょう。」と返事を出しておきましたが、どうもこの手紙は遊戯的な気分が勝ちすぎていて、どこにも奥村のあの人柄が出ていないのを、へんに思いましたが、やはり、私の直感ははずれていませんでした。あとからこの手紙は、新妻さんが鼻の詩人シラノを気取って、たくみに代作されたものだということが分かりました。この機会に、「若い燕」という流行語が、ジャーナリストとして後に世に立った新妻さんの若き日の創作であることを告げておきましょう。

平塚らいてう『わたくしの歩いた道』より

◆平塚雷鳥と奥村博史の出会いは、大正元年(1912年)だとこの本に書いてあるので、永井荷風の『つゆのあとさき』にこの語が出てくるのは初出として納得のいくところである。

 


 

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